文化庁「関西元気文化圏」参加事業 トップページ>コンテンツ>「堺」名前の起源>地図の変遷>歴史と文化>「堺県」横断ウォークラリー |
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・主催:市民活動団体“堺なんや衆” ・共催:堺観光ボランティア協会 ・後援:堺市、堺市教育委員会、(社)堺観光コンベンション協会 ・協賛:NPO法人堺エコ・ネット協議会、堺市漁業協同組合連合会 ・協力:NPO法人ゴダイ、NPO法人なら観光ボランティアガイドの会 桜井観光ボランティアガイドの会、株式会社魚国 |
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目次 1.企画の経緯 2.活動の概要 3.「堺県」再発見 4.参加者の感想投稿 5.活動の成果と展開 報道記事: 大阪日日新聞 (平成16年8月7日) Adobe社 AcrobatReader ダウンロード(無料) |
<企画の経緯> 第22回「堺大魚夜市」の当日(平成15年7月31日)、市民活動発表会の席上でこの“祭”の由来に話の花が咲き、「堺県横断ウォーク・ラリー」の話が持ち上がりました。 「来年は、“堺の浜”に上がった鯛を“春日大社”に奉納し、そこから出発して“大魚夜市”の日に会場にゴールしよう!」と衆議一決、“祭”の効用が発揮しました。 平成16年1月24日(土)、朝一番、「とれとれ市場」から寄贈された鯛を奈良・春日大社に奉納して、行く末久しい“堺衆”の祈願を捧げ、「ならまち」から「平城宮跡」まで“古都”の“古の道”に歴史と文化の歩行探訪が始まりました。 平成16年3月20日(土)、“山辺の道”を「大神神社」から「藤原京跡」へ。平成16年5月15日(土)、“竹内街道”の一方の起点である「長尾神社」に鯛を奉納して安全を祈願し、由緒深い“竹内峠”を越え、聖徳太子が眠る「叡福寺」まで“仏教の伝来”と“堺県”にまつわる故事来歴を訪ねました。 奈良・春日大社安全祈願 堺の浜に上がった鯛奉納 平成16年7月31日(土)、難波津から南下した“大道(おおみち)”の交差点と伝わる「金岡神社」に鯛を奉納して無事の到着を祈願し、堺のランドマーク「仁徳陵」から茶道の由緒深い「南宗寺」を訪ね、延々の目的地「堺大魚夜市」開催会場へゴールして文化庁「関西元気文化圏」参加事業「堺県横断ウォーク・ラリー」を完結しました。 ここに、その“企画”段階から事前の“勉強会”を経て、“計画の実施状況”および“参加者の声”を詳細に網羅し、堺の伝統行事を歴史的な由緒に立ち返って再発見、再生、情報発信して、「文化立都・堺」の醸成に貢献せんとする市民活動団体“堺なんや衆”の活動を記録し、“堺”に関心を持たれ、“堺”を愛する多くの方々へ広くご報告します。 <活動の概要> 「歩いて学ぼう“堺県”」をメイン・テーマとして掲げ、奈良・春日大社を出発点として、7月31日に開催される「堺大魚夜市」会場(堺市・浜寺公園)まで、4回に分けて地域にまつわる歴史と文化を探訪し、再発見しながら「堺県横断ウォーク・ラリー」を実施しました。 第1回(平成16年1月24日)春日大社⇒ならまち⇒平城京跡 参加:70名 第2回(平成16年3月20日)櫻井神社⇒仏教伝来の碑⇒藤原京 参加:69名 第3回(平成16年6月15日)長尾神社⇒竹内集落⇒竹内峠⇒叡福寺 参加:72名 第4回(平成16年7月31日)金岡神社⇒竹内街道⇒南宗寺⇒堺大魚夜市会場 参加:50名 また、「堺県横断ウォーク・ラリー」の開催に当たって、故事来歴、その事実を学ぶため、花園大学名誉教授福島雅蔵先生に「河内の古道と竹内街道」と題してご講演をお願いしました。 講演会「河内の古道と竹内街道の変遷」 仏教伝来の碑(櫻井市・海石榴市) <見聞録 −「堺県」再発見> 『日本書紀』推古天皇21年(613年)に「難波より京に至る大道を置く」と記され、飛鳥京と難波津を結ぶ“大道(おおみち)”が敷かれた。 これは、岸俊男氏の学説によれば、「丹比道(たじひみち)」をさしており、後に「竹内街道」と改称されることになった。 牧 彰;『竹の内街道を歩こう』、26頁(NPO法人ゴダイ) 難波の津からは、大道が、まっすぐ南下して、金岡(金岡神社)の当たりで丹比道に直角に交差し、東へ折れて松原・市岡⇒古市・蓑の辻(東高野街道と交叉)⇒駒ヶ谷⇒太子町・大道⇒竹内峠⇒大和・横大路へと飛鳥の都へ通じていた。 この道の施設は、607年の遣隋使小野妹子の派遣と深く関わりがある。答礼として隋の国より派遣された一行が飛鳥朝廷を訪門(注:難波津⇒旧大和川⇒泊瀬川⇒海石榴市(奈良県桜井市)下船)した際に、その帰国後、“大道”の必要性から造営に取り組み、設営されたわが国最古の“官道”(注:国道第1号とも言われる)である。 しかし、都が飛鳥から奈良へ遷都すると(注:710年・平城京)、丹比道はあまり利用されなくなり、むしろ、奈良の中心地に直接つながっている「大津道(おおつみち)」の方の往来が活発になってきた。 「大津道」は、後に「長尾街道」と改称されたが、堺・方違神社あたりを真直ぐ東進し、堺・蔵前町⇒雄略天皇陵⇒藤井寺市・小山⇒河内国・国府(東高野街道)⇒龍田道⇒大和と通じている。 飛鳥、奈良の時代より“官道”と言われた大道が二つもあったことは、堺の“まち”と奈良の南部の春日大社とのかかわりも深くなり、堺の住民はいつの頃よりか春日大社に供菜を奉仕し、堺の浜に上がった魚介類を献納する風習が生れた。 南北朝期建武4年(1338年)6月、堺浦の魚貝を売買する者が、吉野朝(南朝)通牒の疑いにより魚貝類の売買停止を命じられた。そのため、春日大社への供物が中断することとなり、春日大社よりその解除の嘆願がなされ、足利尊氏の命として高師直が和泉守護細川顕氏にその解除を命じたことが考証されている。 南北朝時代(1336〜1392年)となり、都が吉野に移ると、堺の港で陸揚げされた物資が吉野の都へ運ばれることになり、再び、丹比道の往来が活発になってきた。 中世の頃になると、難波の大道といわれた道が、堺の大小路で丹比道と結ばれ、新たな発展につながっていった。 天文7年(1538年)7月、堺魚屋・弥次郎が寄進した石燈篭が春日大社に現存する。 古市村の経済的発展が、在郷町として、喜志村川面よりも、旅館、金融業者、遊郭等が存在し繁盛していった。 近世後期には、民衆の寺社参詣や西国巡礼等で竹内街道を利用し、竹内峠付近には旅籠屋(山田村:3軒、上ノ太子:4軒、春日村:3軒)が繁盛していた。幕末には、会津藩士、武蔵の国の人々、吉田松陰、天誅組の往来も知られている。 明治に入ると、廃藩置県により堺が明治政府の直轄地となり、「堺県」として大きな行政区域に昇格し、管轄区域(特に、旧奈良県側)の行政管理上、連絡用文書を携えた役人の竹内街道の往来頻度が上がったため通行を安楽・迅速にする必要から竹内峠を掘り下げる工事(約15m)が行われた。 ・明治2年(1868年)6月22日:大阪府から独立して「堺県」を設置 県知事:小河一敏(おごうかずとし) 県庁:当初・堺奉行所、明治4年・現在の西本願寺堺別院、 ・明治2年〜4年:河内、狭山、和泉を統合 久世藩、旗本知行地(今井、小出、水野、田安、一橋)、迫太県、丹南県 ・明治9年(1876年)4月18日:奈良県廃止、堺県へ合併 ・明治10年:竹内峠掘り下げ工事着工、多数の囚人を使用 ・明治14年(1881年)2月7日:堺県が大阪府に編入・合併 ・明治18年(1885年):竹内峠掘り下げ工事完成(竹内嶺開墾碑)、地元住民が利用 ・明治25年(1892年):大阪・奈良間に国鉄・関西本線が開通 ・昭和4年(1929年):穴虫峠を越える近鉄南大阪線開通 奈良・大阪県境碑と竹内峠開鑿記念碑 竹内峠(右側の斜面が開鑿高さ) 竹内街道の人通りは少なくなった。現代では、車の通行道路と化している。 <参加者の声 − アンケートおよび感想投稿から> 参加者の多くは、“堺”の“まち”文化に関心の高い人が多かったせいか、「堺県」や「堺大魚夜市」に関する知見をもたれた方々が大半でした。 従って、参加者の延べ人数:261人(実質参加者:103人、平均:65人/回)、4回連続参加者:27人、2回以上参加者:計63人(平均:2.5回、リピート率:61%)と、この企画に対しておおむね好評を得ることが出来ました。 今後の企画に関しては、堺の文化(歴史、茶、香、昆布、旧街道など)についてのご要望が多く、“堺なんや衆”が目指す「堺の“まち”文化」の再発見、再生、創造に対する関心と期待感が高いことが判りました。 7月31日「堺大魚夜市会場」到着 「堺県横断ウォークラリー」完歩報告会 <活動の成果と今後の展開> 平成15年は、友好提携20周年記念事業として中国・連雲港市に生誕した“徐福”にまつわる伝説を取り上げ(「中国文化セミナー“徐福”」開催)、日中市民交流のあり方を考えました。 平成16年は、堺の伝統的な“祭”である「堺大魚夜市」を起点として、堺の浜に上がった鯛の奉納の故事をひるがえり、奈良・春日大社に通じる古道(山野辺の道、竹内街道)を歩きながら、かつての「堺県」に至る歴史的な背景を学びました。 平成17年は、堺の精神文化と言える「もてなしの心」の実践として、「CHAの文化」(*)をテーマとして掲げ、堺のアイデンティーに迫る活動に取り組みます。 いずれの活動においても、ホームページを通した情報発信と併せて広く活動の成果を報告書にまとめ、公開して、堺の“まち”文化の再生と創造を目指します。 *:堺市博物館館長角山榮先生ご提唱 Communication:ふれあい Hospitality:もてなし Association:人間関係の形成 「堺県横断ウォークラリー」報告書ご希望の方は、ポストよりメール用紙にてご連絡ください。 ⇒このページのトップへ |