中国・東北歴史紀行 3

             

        トップページコンテンツ中国・東北歴史紀行.3.堺の歴史と文化

<引用資料>
  1.野村正七(編著代表);『世界地図帳』、29頁(1996年、昭文社)
  2.資料:杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)、作成:株式会社国際交流サービス;
     『杉本憲司先生と行く「東北古代史  紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」資料集』
  3.「旅順博物館」パンフレット
  4.西本願寺;大谷探検隊「仏の来た道」
    http://www.hongwanji.or.jp/2003/09_12tenjikai/2003otm_11.htm 


中国・東北歴史紀行

<目次>
プロローグ
T.高句麗前期遺跡
U.清朝建国の歴史

V.遼東歴史遺産

 1.後漢・営城子壁画
 2.東鶏冠山・水師営
 3.旅順博物館

 
1)大谷探検隊
 
2)中国古代貨幣

エピローグ

感謝



 白頭山から西へ伸びた長白山脈が遼東半島に至り、その分枝の千山山脈が南西に伸び遼東半島の背骨をなしている。千山山脈の西側には1,400kmも壮大な“遼河”が流れ、その遼河を中心に西側を遼西地方、東側を遼東地方という。
 この遼西・遼東地方は、古くから“黄河”周辺の“中原”とは全く異なる文化を形成した東夷族が住むところで、中国を始めて統一した秦の始皇帝の時代にはこの地域に遼東軍が置かれ、満州方面の前線として漢民族が支配した。402年高句麗軍の広開土王によって攻め落とされ、その後、夫餘、鮮卑、契丹、女真などが入れ替わりたち変わり勢力を伸ばし活躍した地域といわれている。
1.後漢時代(西暦25〜220年)初期−営城子壁画磚室墓(石ブロック積み上げ墓)
 墓室は、中国伝統の石ブロック積み上げアーチ様式に建てられ、その壁面に墨糸でスケッチの上に少し彩色上絵を与える技法を用いている。
 戦国時代(紀元前475〜221年)以前の墓は、すべて土坑墓か木室墓であって、その内部にも地上にも、ほとんど装飾らしいものは施されなかった。漢代になると、木が燃料として消費され少なくなったため木室墓がすたれ、代りに石や磚(石ブロック)で築く磚室墓が築かれ、壁面に漆喰を塗った上に絵を描いたり浮き彫りを加えたりすることが盛んになった。また、地上に石闕・石人・石獣などを置く風習がはじまった。
 漢代には肖像画などがよく描かれ、なまの絵画は地上に残っていない。したがって、名もない画工の手になったものとはいえ、墓中の壁画は貴重である。おもな主題は人物や鳥獣で、ほとんど自然界・人間界の事象万般にわたっている。
 この地域の画像にはないが、四川方面の画像には透視法や遠近法の描写力が見られ地方性を示すものとして注目される。
 
2.近代(1870〜1910年)−東鶏冠山北堡塁、水師営
 都市としての大連の歴史は、日清戦争(1894〜1895年)で日本が清国から得て始ったが、その後、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉により清国に返還するも、その後、大陸への戦略的補給基地としての奪還を目指した日露戦争(1904〜1905年)で、約3ヶ月の内に日本軍によって占領されることとなった。
 日露戦争に応召し旅順口包囲軍の中に居る弟を歎いて歌った堺出身の歌人・与謝野晶子の詩
『君死にたもうことなかれ』(「明星」、1904年9月)は、当時の世間に大きな反響を呼び起こした。
     ・・・・・・・・・・・
     堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば
     君死にたもうことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても 何事ぞ
     君は知らじな あきびとの 家のおきてに無かりけり
     ・・・・・・・・・・・・
ロシア側防御要塞跡 第1回総攻撃(1904年8月19日)では日本軍が全滅 
その後、トンネルを掘り、地下から肉弾戦で陥落した激戦地
 
旅順港口幅274m ロシア艦隊50艘停泊 203高地より7kmを飛弾距離7.8kmの榴弾砲で攻撃 
 
旅順口開城規約を議定し、明治38年(1905年)1月5日、日本・乃木大将とロシア・ステッセル中将会見せり
3.旅順博物館−大谷探検隊収集品
 旅順博物館は、1917年に日本が大連を統治する関東都督府満蒙物産館として建築された。その後、日本自体のほか、ソ連および中国によって名称変更されたが、1954年に、旅順博物館として郭沫若氏揮毫扁額を掲げ現在に至っている。
 主館と分館があり、主館には、以下13のカテゴリーに分類して展示している。
 青銅工芸、漆器、竹木牙彫刻、琺瑯、鼻烟壷、陶瓷、玉雕、書画、印爾、仏像、銅鏡、貨幣、新彊歴史文物(ミイラを含む)
 分館には、大連古代文明と日本画、日本・朝鮮陶瓷、古代インド石刻、外国近代切手などがある。
1)大谷探検隊
 浄土真宗本願寺派第22世門主・大谷光瑞師は、明治維新後、急速に西洋化していた日本における仏教の将来展望に危機感を持っていた。また、仏教が衰亡した中央アジアでイスラム教の信者が増加し、留学先のイギリスでもその数の多くが寺院(モスク)に参拝する様子を目の当たりにして、それが日本の仏教の将来の危機につながるのではと危惧した。
 光瑞師は、中央アジアを中心として仏教東漸のルートを踏破し、浄土三部経など仏典の起源を仏教伝来のルートをたどる中で確認し、仏教思想の世界的な位置づけを明確にしようとして、仏教遺跡の調査、仏典史料をはじめとする文物の収集を行った。
 第3次に渡る探検の成果として、古写経を含む仏教関係出土品収集にはじまり、碑文の拓本、古銭、染織断片、標本など収集品の数は博物学的資料約9,000点に及んだ。

  第1次探検(1902〜1904年): パミール高原、サマルカンド、カシュガル、インド、トルファン、西安
  第2次探検(1908〜1909年): 桜蘭、トルファン、クチャ
  第3次探検(1910〜1914年): 敦煌、トルファン、クチャ、雲南省

 1914年、探検に要した膨大な費用を含めた巨額の教団の負債の責任をとって門主を辞し、後年、旅順に移り研究を続けたが、収容しきれない収集品を旅順博物館へ寄贈した。
2)中国古代貨幣
 中国は世界でも早く貨幣を使用し、歴代の貨幣の種類は非常に多く、形式は多様で貨幣の材料も広範囲にわたり、古代社会制度の変遷と経済の盛衰を反映して独特の発展を経緯してきた。
 例えば、最も早い貨幣は、殷時代(BC21世紀〜BC1066年)の貝貨(子安貝)で、携帯しやすく、長持ちするのが重宝されて使用された。春秋時代(BC770〜BC476年)に金属貨幣が出現し、その後、次第に貨幣としての機能を失った。
 秦の始皇帝が中国を統一した後(BC221年)、貨幣や度量衡や文字を統一した。黄金は上等貨幣で、銅線は下等貨幣と規定し、単位は“半両”で“銅半両”と称した。その後、この“銅半両”銭は2000年あまり続いてて使用された。
 
エピローグ
 親友から「満州へ行かないか?」と声をかけられた時、一瞬、「残留孤児」の問題が頭をよぎって躊躇した。「なぜ、満州なのか?」と問い返した中で、高句麗前期・広開土王“碑文”に関わる日本の歴史と文化の黎明期を思い出させてくれ、「倭の五王」という地元・堺で聞き慣れた言葉にも魅かれた。「もしかしたら!」と持ち前の「なんやろか?」(活動母体“堺なんや衆”の由来)と好奇心に駆られた。
 「中国・東北歴史紀行」の行程は、アクセス機関の都合もあって
 関空⇒瀋陽(瀋陽故宮)⇒永陵、ホトアラ老城⇒集安(高句麗前期都城、好太王碑、古墳群)
  ⇒丹東(中朝国境、虎山長城)⇒旅順(旅順博物館、水師営、東鶏冠山、営城子壁画)⇒大連⇒関空
であったが、道中、我がまち「堺」の古代と近代に思いを馳せ、未来への糧として中国・東北歴史紀行を以下の切り口で表現してみた。
  1. 世界遺産 高句麗前期(集安)の都城と古墳群
  2. 世界遺産 清朝建国の歴史−ホトアラ城、瀋陽故宮、関外三陵
  3. 歴史遺産 遼東半島 古代と近代
 高句麗遺跡の集まる集安では、現在、堺市でも世界遺産申請が進んでいる「百舌鳥・古市古墳群」のあり方が頭の中にあった。当初を知らなかった私にとって、広大に整備された現状は、「すごいな!」と思うだけであったが、その実は、北朝鮮領域にある高句麗遺跡の世界遺産申請で提起された国境の問題が背景にあって、政治的に短期間に整備されたことを知らされた。世界遺産保護としての環境整備はもとより景観整備にも配慮され、近隣の建築物への規制の様子が伺えた

高句麗遺跡古墳群環境整備前(集安)


瀋陽故宮 清寧宮
外部ショッピングセンター(白い建築物)が
景観に配慮して城壁状デザイン化
 一方、国境問題や少数民族問題など政治的課題がある地域でありながら、広大な中国にあっては、まだ、辺境に近い地域で、観光客を呼び入れるには交通手段の整備が遅れており、世界遺産およびその周辺環境をどのように維持していくのか、今後の対策が課題として残されているように見えた。
 瀋陽故宮では、堺と遣明船貿易で交易のあった“明”国の衰亡の足跡を見る思いがあった。黄河流域周辺を文明中心地とした“中原”に対して“長城”の外を意識した“関外”(山海関の外部)民族の戦略・戦術物語があり、時を経て幾重にも施設された長城が、その壁の高さと厚さで創ってきた幾多の歴史と物語を学んだ。
 旅順博物館では、堺に生れ、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えインド仏典の原型(大蔵経)を求めて鎖国のチベットへ入国した探険家・河口慧海(1866−1945年)の足跡を想起させる「大谷探検隊のコレクション」に釘付けとなった。そんな中で、秦の時代の貨幣、度量衡や文字など展示品に出合ったあったことは、
「徐福伝説に取組んだ私にとって思いもよらない貴重な体験であった。
 個人的には大連の街に亡父の母校・南満州工業専門学校を訪ね、在学中、ラグビーに熱中した青春時代の語り草を思い出した。

旧南満州工業専門学校(現・大連理工大学)

ホトアラ城「満州族農家小院」レストランにて
感謝
 多くの“学び”と“発見”に満たされ、私の中に“知価革命”が起り膨らんだ気持ちになって帰ってきた。「心の満たされた旅」であった。
 誘っていただいた親友に感謝します。

 また、仏教大学文学部・杉本憲司教授には、現地であれこれ愚問を発しながらも丁寧に適宜ご教授いただきました。圧巻だったのは、随所で杉本先生の名声のお陰で、私たちが歴史考古学の専門家として、日頃、観光客が見学できない遺跡および貴重な文物を見学させていただいたことです。とりわけ、旅順博物館では、特別に写真の撮影をお許しいただき、お陰様でこの「中国・東北歴史紀行3」の内容を大変意義のあるものとして支えていただきました。
 ここに、杉本憲司先生および現地関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
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