1600年の歴史と文化に出会うまち「堺」

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 受講ノート:
   大阪府立大学観光産業戦略研究所発足記念フォーラム (主催:大阪府立大学)
      観光が地域を変える-大阪・堺 21世紀の観光を語る
         「大阪・堺の歴史文化」    堺市博物館館長 中西 進
                                    平成21年3月27日
 堺商工会議所
 「観光」についての論考資料:
   
観光稿 http://kankou-kou.cocolog-nifty.com/tourism/
 参考資料:
  1.堺市博物館;館長ビッグ対談「堺は世界の窓口だった」-古代から現代まで-
     金関 恕(大阪府立弥生文化博物館長)、角山 榮(堺市博物館長)

  2.角山 榮;『堺-海の都市文明』(2000年、PHP研究所)
  3.(財)堺都市政策研究所;対談「新しい都市像構築に向けて」;Urban、Vol.17、2(2005年3月)
     上田正昭(堺市学術顧問)、角山 榮(堺市博物館長)、中西 進(堺市都市政策研究所理事長)
  4.橋爪紳也;「堺からの情報発信」;Urban、Vol.17.26(2005年3月、(財)堺都市政策研究所)
  5.堺市長公室企画部;『堺市総合計画 堺21世紀・未来デザイン』(2001年)



目次
Ⅰ.大阪・堺の歴史文化
 1.「観光」とい言葉
 2.堺が輝いた日々

Ⅱ.堺のくに、都市、人、こと
 1.くにづくり、都市づくり
 2.堺の“光”-もの、人、こと
  1)百舌鳥古墳群 仁徳陵
  2)大僧正 行基
  3)「茶の湯」 千利休
  4)近代日本文学 与謝野晶子
 3.「茶の湯」の文化論
Ⅲ.堺の都市像
Ⅳ.堺の再生と創造

Ⅴ.堺「五大世界一」






<報道>
 百舌鳥・古市古墳群
 世界遺産暫定表記載
  

「受講ノート」

1.「大阪・堺の歴史文化」
堺の“光”
1.「観光」という言葉について
 「観光」という概念については、どう理解してどのように受け入れるかが課題である。
 現在、大学においてにわかに「観光」という言葉が戦略的なキーワードとして捉えられてきているが、その大部分は、新たな経営資源としての「観光」資源に対する人材供給というニーズに応じた対応というのが実情である。
 国を見れば、その国の王がどのくらい国を治めているか分かるということを意味しており、よい政治のもとでは、人々がいきいきと暮らすことができれば、他国に「光を示すことにもつながる」ことを示唆している。
 この光の要素には以下の三つがある。
   ① 政治、経済に裏付けられた社会的な制度(人間の外的な要因)
   ② 伝統、文化(人間の内的な要因)
   ③ 地勢、時の勢い(自然環境、景観、・・・)
 つまり、「観光」ということは、単に国を見るということだけではなく、国を見ることを通じてその国のリーダーを見るということに通じている。
 すなわち、「観光」の本来の意味は、国の治世者が領地を見回って人々の暮らしを見ることにより、政治や経済の施策がいきわたり社会的制度が活かされているか、人々が自主的に伝統を築き、文化力を高めて誇りを持って暮らしているか、また、優れた自然環境に恵まれ気高く自らを高めているかを確かめることにあった。そして、より良い政治の下で人々がいきいきと暮らすことができれば、他国にも「光を示す」ことにもつながるという考え方を意味する。
 日本における「観光」とい言葉の使用は、幕末1855年、オランダから第13代将軍徳川家定に贈呈された木造蒸気船「スームビング丸」(進水:1853年、長さ:52.7m、幅:9m、排水量:400トン、150馬力、大砲:6門)を江戸幕府初の長崎海軍伝習練習艦として「観光丸」と命名したことに始まる。咸臨丸(かんりんまる)は、観光丸に遅れること2年(1857年)、江戸幕府2番目の軍艦として就役し艦長・勝海舟がはじめて太平洋を往復したことから名が知られている。
 「観光」という言葉は日本語であり明治時代から一般的に使われるようになった。中国では「旅游」という。この場合の「観」は、「見る」と読むのが本来的な意味であるが、昭和5年、鉄道省の国際観光局が設置された際に、「観光局」命名の背景として「国の光を“示す”」という読み方を含めて説明以来、本来の意味を逸脱した考え方が今日まで伝ってきた。
 明治維新を皮切りとして欧米文化が流入してきたが、日本はアジアの伝統的な歴史観の中で、住民の気高く誇り高い自主的な活動により外来の潮流に飲み込まれることなく独自の文化を築くことができた。
 つまり、観光の原点は、「人々の暮らしを見る」とともに、その地域にすむ人々が「自ら光を示す」ことにある。
    
                    堺東観光案内所   堺の匠の技

2.堺が輝いた日々
 日本が国として国家を形成したのは5世紀であり「河内王国」をあげることができ、これは「大和王権」国家に先立つものであり重要である。第2の国家形成は、織田信長による全国統治の時期であり、それは、豊臣秀吉によって引き継がれ南蛮文化によって花開いた中世の国家となった。
 その後、徳川家康によって江戸幕府が開府し首都が関西から関東へ移動して第3の国家が始まった。近代国家の始まりは明治維新であり、第2次世界大戦後は現代国家としてさらに生まれ変わった。
 これらの中で、堺は第1次および第2次国家形成の時代に関わりをもち、むしろその中心にあったことは注目すべきことである。


Ⅱ.堺のくにづくり、都市づくり、人づくり、ことづくり
1.くにづくり、都市づくり
第1期(紀元前4~2世紀)四ツ池集落遺跡を中心とした弥生時代
 石津川流域下流左岸に四ツ池集落遺跡が存在し、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「国」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、水田稲作の文化があり、食糧の大量生産体制が整い、大、中規模の墓が存在し整備されたムラであり、さらに、銅鐸も発見され金属器の使用が考証されている。

第2期(5~10世紀)巨大な古墳が造成され、須恵器の生産が盛んになった時期
 仁徳天皇が高津の宮を営み、在位中から百舌鳥の地に巨大な大仙古墳を築造された。そのほかに履中陵(百舌鳥陵山古墳)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、反正陵(田出井山古墳)など大型古墳群が集中して築造された。
 これらの築造に携わった人々、食糧、物資の集中は、それまでに例を見なかった賑わいと想像される。
 また、5世紀前半ごろ、陶邑で、朝鮮半島南部渡来の工人による須恵器の生産が始り、平安時代まで約500年間続いた。新技術によって作られた硬い須恵器は、全国の需要を招き、列島住民の生活をも改変した。
 1962年、泉北地域の開発に先立ち発掘調査の結果、陶器山、高倉寺、栂、光明池地区などで600基以上の登り窯が発見された。
 この時期に、僧行基(668~749年)が活躍した。

第3期(1469~1615年)町人による
  自由・自治都市、南蛮文化渡来の時代

 遣明船が、応仁・文明の乱による焼失で当初予定の兵庫港に入港できず、堺港に入港して依頼堺港が遣明船の発着港となって栄えた。
 前半期(1469~1550年)は、東アジア貿易として遣明船貿易(1469~1523年)と琉球(対明貿易のハブ港)貿易が栄えた。後半期(1550~1615年)は、南蛮貿易が始まり、鉄砲の伝来により堺は、政治、経済と併せて軍事戦略上の重要な都市となって発達した。
 堺の町は、会合衆といわれた町人自らが治め、とりわけ、“納屋衆”といわれた有力商人10人が力を持っていた。
 これら商人の中には、千利休、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人と言われた人たちが居り、特に、千利休(1522~1591年)は、独自の美意識ともてなしの心を理念として「茶の湯」の文化を大成した。
第4期(1868~1900年初頭)「堺県」設置、「新しい人間像」与謝野晶子の時代
 明治に入ると廃藩置県により堺が明治政府の直轄地となり、1868年「堺県」として、現在の奈良県を含む大きな行政区域に昇格し、1881年2月に大阪府に編入されるまで続いた。
 1901年、与謝野晶子(1878~1942年:堺県堺区甲斐町生れ)が第一歌集『乱れ髪』を刊行して脚光を浴び、以後、近代日本文学史のジャンルを開き、女性の経済的自立を訴えて活動し近代の「新しい人間像」として黎明期を担った。
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2.堺の“光”― もの、ひと、こと
1)百舌鳥古墳群 仁徳陵(大仙古墳:5世紀中頃)
 当初、100基位あったと言われ、現在は、46基の古墳が歴史遺産として残っている。
 中核となる仁徳陵(大仙古墳)は、日本最大規模の前方後円墳(全長:486、後円径:249m、高さ:35m、前方幅:305m、全周:約2.8km)で、クフ王のピラミッド(エジプト)、秦の始皇帝陵墓(中国)と共に世界3大古墳といわれている。
 百舌鳥古墳群の東側12km、羽曳野市を中心とした位置にある古市古墳群には当初150基ぐらいあったが、現在では、46基しか残っていない。
 最大規模は、応神稜(誉田山古墳)で、仁徳陵に次ぐ巨大な前方後円墳(全長:415m、後円径:258m、高さ:36m、前方幅:330m)である。
 百舌鳥・古市古墳群には、仁徳陵(大仙古墳)、応神稜(誉田山古墳)、履中陵(百舌鳥陵山古墳:全長:360m、後円径:205m、高さ:19m、前方幅:237m)と、日本の3大前方後円墳があり貴重な歴史遺産となっている。

2)我が国最初の「大僧正」 行基(668~749年)
 和泉国大鳥郡蜂田郷(現堺市家原町)で生れ、百済の渡来人・王仁(わに)博士の後裔・西文(かわちのふみ)氏から分かれた高志(こし)氏の出身と伝わっている。
 15歳で出家して奈良・薬師寺に入り法相宗を学んだ。その後、仏教が、国家の統制下におかれていた奈良時代、国に奉仕する仏教にあきたらず"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻さなければと活動を起こした。
 まちへ出て民衆に教えを説き、旅人の行き倒れを助けることから始まった。
 行基の説教を支持する多くの民衆の協力を得て、道や池、溝、港、布施屋など社会事業施設を造り、狭山池や昆陽池なども造った。また、民衆のために、家原寺はじめ、49ものお寺を造った。
 行基菩薩と呼ばれ民衆の絶大な信仰を集めたため、無視することも出来なくなり、国も東大寺大仏建立事業に行基の力を借りることになった。そして天平17年(745)に、聖武天皇から我が国最初の大僧正の位に任ぜられた。
 衆生に対する慈悲を説く僧・行基の教えは、その後、遣唐使として唐に学んだ最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)に大きく影響を与え日本の大乗仏教実践の規範となり、方年、親鸞、一遍、日連など鎌倉仏教の教祖を生み出し浄土思想の普及に発展した。
 

「堺の禅寺」
3)「茶の湯」文化の大成者 千利休(1522~1591年)
 堺市今市町(現宿院町西)で、納屋衆・魚屋千与兵衛の長男として生れ、幼名を与四郎と言った。
 後に、禅の道に精進して、南宗寺の高僧・大林宗套から「宗易」の名を与えられた。
 当初、北向道陳に書院台子の茶を学び、19歳の時に武野紹鴎に茶の湯を学んだ。
 道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界、封鎖空間を作り出した。
 宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化した。
   例、四周を壁で囲い、小さな入り口(にじり口)、小さな開口部、格子、
     極小のスペース(二畳敷き)、最小限の料理(一汁一菜「懐石料理」)
     和菓子(料理の代わり)
 「父子相伝」よりは「師弟相伝」など、実力主義の秘伝口伝を重視した為、著作はなく、高弟の山上宗二による『山上宗二記』が貴重な著作として伝えられている。
 千利休の「茶の心」を表す言葉:
   ・「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」
      人為的に力を加えず、静かさの中、自然なままにある姿
   ・「和敬清寂」:相互に心を開き、敬い合い、清らかにして常に動じない心
   ・「一期一会」:その時、その場を大切にして信頼ある人間関係を築く心
   ・「一座建立」:亭主と客人の心遣いが一心一体となって結ばれる心
 後年、織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われた。1585年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、1587年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰した。
 1591年、不遜の行いがあったとして秀吉の怒りを買い、堺で自刃しその生涯を終えた。
 現代に伝わる3千家(武者小路、表、裏)は、娘婿・少庵の孫・宗旦の子供たちによって子々孫々継承されている。
    
  4)近代日本文学史と女権主義の先駆者 与謝野晶子(1878~1942年)
 堺県堺区(現堺市)甲斐町四十六番屋敷で、老舗和菓子屋「駿河屋」を営んでいた鳳宗七・津祢の3女として生れ、本名を志ようと言った。
 1900年(明治33年)、文学結社「東京新詩社」を結成し、機関紙『明星』を創刊して来阪した与謝野鉄幹(京都市出身)の行動に強く共鳴し、上京して、翌1901年に二人は結婚した。5男6女、計11人の子供の母親となった。
 1901年(明治34年)に出版した第一歌集『乱れ髪』は、鉄幹への溢れる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、若い世代の圧倒的な支持を得て浪漫主義の代表作となり、「明星」派は当時の文学に大きな影響を与え近代日本文学史の流れをつくった。
 1904年、日露戦争で旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて長詩「君死にたもうこと勿れ」を発表し、内容が国賊的であると批判を受けたが、これに対して『明星』に「ひらきぶみ」を発表し、「歌は誠の心を歌うもの」と反論して動じることはなかった。
 また、生涯を通して、『源氏物語』、『紫式部日記』、『徒然草』など古典文学に傾倒し、その現代語訳に情熱を注いだ。
 一方、1911年(明治44年)には、女性文芸誌『青鞜』(青鞜社)発刊に参加し、巻頭に「そぞろごと」と題した詩の中で「山が動く日が来る」を発表して、賛辞を贈った。大正時代(1912~1925年)、女権主義を提唱して論陣を張った。
 1921年(大正10年)には、自由主義を骨子として、芸術による人格の陶冶を目指す教育の実現を目指して西村伊作、石井柏亭、与謝野鉄幹らとともに文化学院を創設し実践活動を行った。
  3.「茶の湯」の文化論
1)江戸時代、なぜ、堺の「茶の文化」は衰退したか?
 (1)「茶の文化」の経緯
   ①心を癒す、体を癒す ⇒薬用 1191年、栄西禅師、宋より導入
   ②遊び           ⇒闘茶、聞茶 室町時代
   ③数寄(風流)      ⇒唐物(美の文化) 村田珠光 和漢のまぎらかし
   ④侘び、寂び       ⇒市中の山居(市中の賑わいの対極) 千利休
     〔もてなし、対等・共生(人と人・人と自然)、“まち”中での山里文化〕
   ⑤型の美         ⇒作法(流派) 武家社会(朱子学、儒学思想)
(2)「型の美」としての展開
 江戸時代になり、公家なども含めて全ての階級が武家社会構造に組み込まれ、各藩所属として武士との相互依存の道を歩むこととなった。
 本来「茶の文化」を担った商人が、士農工商と定められた武家社会構造の最下級に位置づけられた。
 武家社会では、朱子学および儒学思想に基づく武士道の理念が重んじられ、建前社会となった。
 その一方、建前社会の中でプリンシプル(主義)に乏しい武家たちは、中世において商人たちにより文化のレベルまで高められた「茶の湯」に心のよりどころを求め、“茶人”(町人、商人)を“茶匠”として藩侯お抱えとし、「型の美」(作法)を発展させていった。
(3)町人(商人)文化としての「茶の湯」の文化の衰退
 本来自由、平等、共生、もてなしの発想を基盤とする「茶の湯」の文化も、武家社会体制(格式、不自由、人間性の欠如など)の強化の中で、茶人たちが堺を離れ、町人文化の自由が拘束を受け自然に衰退の道をたどることとなった。

2)「もてなし」の文化論 - ヨーロッパ人の視点
 宣教師ジョアン・ロドリゲス(ポルトガル人、1561~1639年:1577年15歳で来日)は、日本についての30年間の研究の成果を『日本教会史』(全3巻*)に著し、その第1巻の2/3を「もてなしの文化」論について書き残した。*:第1巻:日本、第2巻:中国、第3巻:フランシスコ・ザビエル
 ヨーロッパ人は、堺に来て、はじめて「茶の湯」の現場を見て驚いた。当初、「茶の湯」は、奇妙な風習、飲み物と素朴に疑問に思った。
   ①なぜ、一椀のお茶を飲むのに小屋(茶室)
     を建てるのか?
   ②何故、隅の方(にじり口)から身をかがめて入るのか?
   ③茶碗は、鳥かごの鳥に水をやるような器
   ④茶碗の値段は、イエズス会日本支部の1年間の予算より高い
   ⑤狭い部屋での堅くるしい作法、儀式

 そこに見た現実から、日本人独特の武士道的価値観をうまく取り入れながら発想された「侘び」、「寂び」の理念としてではなく、日本の生活文化に基づく「もてなしの文化」という独自の「茶の湯」の文化を見出した。
 本来の「もてなし」とは、応接、礼儀作法、料理、酒、お茶と豪華な宴会のもてなしを基本としていたが、応仁・文明の乱(1468~1486年)、戦国時代(1490~1570年)など、下克上の無秩序の世の中にあっては、そのような接待宴会が成立しなくなり、やむなく、その一式を凝縮した形で最後のお茶席だけを独立させ、人間不信の時代に人間相互の信頼関係の回復と新たな人間関係の形成を目指した作法が創造された。
 家の造り、造作、作法を徹底して凝縮し、主人が、客の目の前で全てを公開しながら濃い茶をたて、廻し飲み(毒物注入の嫌疑を払う儀式)をしてもてなし、信頼感の漂う人間関係の形成を目指した。
 その空間は、身分を離れ、主客対等で、安全が保証された聖なる空間として位置づけている。

 
Ⅲ.堺の“都市像
 立地的には、百舌鳥古墳群があり、古市古墳群と併せて日本の3大古墳を擁し、これらは、日本の最初の官道(国道)と言われる丹比道(たじひみち:後の竹内街道)で結ばれ、さらにその東には、日本の国づくりに関わった要人たちの陵墓・古墳群につながる歴史的な遺産の要地である。
 民衆の自由、平等、共生に基盤を置く堺の潜在的な文化力には、一人のヒーローのみを生むのではなくて、これら民衆集団の中に本来的にある潜在能力者の中から代表してヒーローを生み出す文化基盤のある都市である。
 中世の頃の堺の商人は、東アジア貿易(遣明船貿易、琉球貿易)と南蛮貿易によって資力を貯え、そのゆとりある生活の中から「茶の湯」の文化が醸成され、千利休が、「もてなしの心」を理念とする「寄り合いの文化」として大成した。
 応仁・文明の乱(1467~1478年)で焦土と化した京都の文化や僧侶を受け入れ、その富の多くを京都の寺院の再興に供し、堺の寺院建立に投じて泉南仏国(約300寺)を築いた。
 南蛮文化の渡来のなか鉄砲が伝来し、堺の匠たちは標準化に基づく協業方式で大量生産体制を創出し近代戦術の幕開けを演出した。さらに、包丁、自転車など金属加工業の匠の“まち”として今日にいたる固有の地場産業をもたらした。
 優れたシステムを持った生産都市は、ヨーロッパの都市のように町人による共和制をしき自治・自由都市として海外に開かれた国際貿易都市となってわが国最初の都市ブルジョワジーの台頭となった。
 行基や与謝野晶子は、当初は、反社会的な活動として認めれなかったが、その功績は、無視することが出来なくなり、後には、行基は、大僧正に任ぜられ、与謝野晶子は、近代日本文学史および女性運動の先駆者として社会的に評価された。
 堺は、行基、千利休および与謝野晶子に代表されるように、視野を広く、思いを深め、自分の意思を最後まで貫き通す進取な精神を持ち合わせた人材の輩出を促す文化力に長けた“まち”であった。
 これら先人の伝統は、“まち”づくりにおいて自己責任、自己決定が求められる現代の規範に通じるものがあり、未来の都市像の創造に当たって堺市民として認識を新たにすべき課題と言える。

 
Ⅳ.堺の再生と創造
1.「文化の“まち”・堺」宣言



 堺に住み、学び、働く人々はもとより、堺の「文化」をライフワークとして取組む人々が「堺」の“まち”を誇りを持って語り、心を豊にして、心の健康を維持する。
 千利休によって大成された「茶の湯」の心は、人を如何にもてなすかという文化であり、“主”と“客”が対等、人と自然との共生を理念とする日本独自の文化である。
 人間関係を大事にするお茶の心を活かした人づくりの中から、「もてなし」、「寄り合い」、「伝え合う」新しい文化が生れ、平和の維持に通じる。
 匠の技(中小企業)も活かした文化都市構築に向け「文化の“まち”・堺」を宣言をし、「文化」を堺のアイデンティティーとして位置づけ、内外に堺市が取組む戦略を明確にすることが望ましい。

2.選択と集中を基調とした国際文化観光都市「堺」の未来創造図
 堺の“まち”の賑わいづくりには、歴史的ストックを踏まえつつ、色々な要点を重層化させながら、観光集客の拠点を複合的に作り出すことが必要であり、歴史・伝統を活かして新しい物語、魅力を作り出すことが大事である。
 「文化の“まち”・堺」をアイデンティティーとして、「集中」を基調とした新しい都市像の再構築が必要である。


< 国際文化観光都市・「堺」- 未来創造図 >
1)「文化の“まち”堺」を宣言し、堺の内外に「アイデンティティー」として打ち出す。
2)地理的にランドマークとなる百舌鳥古墳群を古市古墳群および近つ飛鳥古墳群
  (王陵の谷)と統合し、歴史遺産としてその間を結ぶ丹比道(日本最初の官道:現
  ・竹内街道)と併せて世界遺産に登録する
3)堺の都市魅力づくりに相応しい人材を育成する。
  突出した人材育成、突出した人材の受け入れ、これらが活躍出来る環境づくり
4)「人と人との共生」、「人と自然の共生」をテーマとして、「文化の“まち”・堺」を再構
  築する。
 ①「文化ゾーン」- 百舌鳥野エリア
   ・古墳文化、茶の文化、近代日本文化
   ・大仙公園を中核として、百舌鳥古墳群、茶室(黄梅庵、伸庵)、堺市博物館、
   ・自転車博物館、堺市中央図書館、堺市文化館(移設)、大阪女子大学跡地
    活用(文化交流、宿泊施設転用)、レストラン(もず野)を活かす。
 ②「コミュニティー・ゾーン」- 環濠歴史都市エリア
   ・匠の“まち”、“まち”なかミュージアム
   ・歴史・文化遺産・資産を活かしたコミュニティー・ビジネス集積エリア
     鉄砲、刀、包丁、自転車、鋳物、線香、和菓子、昆布
 ③「親水ゾーン」- 海との共生エリア
   ・自由で、おおらかで、清潔なひと、もの、かね、情報、娯楽の集積された夢多き
    ゾーン
   ・東アジア文化、東南アジア文化交流

     国際観光都市「堺」 未来創造図
 
Ⅴ.堺「五大世界一(堺市産業振興局観光部 部長 坂本弘毅氏制作)
    
 

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