堺・まち文化

堺の興亡の歴史とまち文化

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角山 榮;『堺ー海の都市文明』(PHP研究所、2002年2月)
角山 榮;講演「お茶文化と“もてなし”の心」(大安寺、平成15年6月21日)
豊田 武;『堺ー商人の進出と都市の自由』(至文堂、昭和41年)


真に、“堺衆”ということについて
角山 榮先生 プロフィール




報道記事:
 日本経済新聞(夕刊)
 (平成17年6月25日)
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 「海」は、古代からヒト、モノ、情報の遠隔交流の場として重要な役割を果たしてきた。堺 海の都市文明
 堺の繁栄は、応仁・文明の乱の影響を受けて、堺港へ遣明船が入港した1469年から大坂夏の陣にて堺のまちが壊滅的に戦火焼失する1615年までの約150年の間であった。
 その間、堺は、町人による自治都市、国際貿易都市として栄え、日本の政治、経済、軍事戦略上重要な地位を築いた。
 14〜15世紀、元寇の敗北以後、中国の制海権が衰退し、日本人、琉球人が海洋民族として積極的にアジア海域へ進出した。15〜16世紀のアジア、とりわけ日本は世界でも最も進んだ文明の中心地であった。
 世界から、“黄金のジパング”と呼ばれ、取引手段としての銀、金の供給元であり、日本の銀を目指して世界が動く時代であった。宣教師の来日もその目的の延長上に位置づけられていた。
 その栄華の中、堺の商人・千利休によって茶道が大成され、“もてなしの心”を基本とした「茶の湯の文化」として一世を風靡し、今日まで伝統的に連綿と引き継がれている。
 堺商人の栄華は、豊臣秀吉の牽制を受けて大坂に移動させられ、大坂夏の陣で大火に遭遇し決定的な被害をこうむった(1615年)。また、徳川幕府により商人の位置づけが「士農工商」と社会秩序の中で最低の格付けに据え置かれた。
 徳川時代の堺商人は、京都、江戸の商人とともに与えられた長崎での生糸取引の特権(糸割符)の上に居座ったまま、かつての雄飛した冒険商人の魂はなく、その特権を守るだけの保守的な商人になってしまった。もはや、堺は「長者の隠れ里」ではあっても、大坂商人の懐徳堂のような町人の教育機関の誕生はもとより、近江商人のような冒険的な“旅商人”を生み出すことも無かった。堺は、16世紀に繁栄した商人の町から、江戸時代は職人の町かわっていった。
 堺商人の富は、応仁・文明の乱(1467〜1478年)で荒廃した京都の町の復興資金として注がれ、17世紀、「泉南佛国」(環濠の東側一体約300寺)と言われた堺の町の寺の建立、修復に寄進された。
  堺大絵図

さらに詳細は、「読書メモ」をご覧ください。
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