中国・東北歴史紀行 1

       

 トップページコンテンツ中国・東北歴史紀行1.巨大古墳シンポジウム堺の歴史と文化

<引用資料>
  1.株式会社大林組プロジェクトチーム「王陵」;『季刊大林組』第20号(1985)
  2.資料:杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)、作成:株式会社国際交流サービス;
      『杉本憲司先生と行く「東北古代史  紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」資料集』
   3.地球の歩き方編集室;
      『大連・瀋陽・ハルピン−中国東北地方の自然と文化』’07〜'08(ダイヤモンド・ビッグ社、2006年改訂)
   4.宮崎正勝;『早わかり世界史』、84頁(日本実業出版社、2002年)
   5.フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国・東北歴史紀行

< 目次 >
プロローグ
 ・行程
 ・歴史年表対比

T.高句麗前期遺跡
1)都城と古墳(集安)
  
・高句麗王朝系図
  
・大王陵(将軍塚、太王陵)
  
・広開土王碑
  
・丸都山城・国内城
  
・山城下古墳群
2)“中朝”国境の問題

U.清朝建国の歴史
V.遼東歴史遺産

エピローグ

感謝

プロローグ
  わがまち“堺”には、人皇十代・崇神天皇八年十二月二十九日(西暦90年)勅旨により創建されたと伝わる“方違神社(かたたがい神社、現在は、ほうちがい神社)がある。
 神社由緒によれば、「創祀後、時を経て神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、皇子(応神天皇:仁徳天皇の父)とは異腹の“かごさか”、“おしくま(忍熊)二王の叛乱に遭い、住吉大神の教えに従って、神武天皇の丹生川上御斎祷の故事にならいこの地において八十天万御魂神を祭り皇軍の方災除けを祈り勝利に導かれ、応神天皇の御代に、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、三筒男大神(みつつおのおおかみ)および息気長足姫命(神功皇后)を合祀して方違大依羅神と号した。」と伝えられている。境内には、神功皇后が馬を繋いだと伝わる遺跡「神功皇后御馬繋之松」碑がある。
 一方、堺のランドマークといわれる
伝「仁徳陵」を中心とした百舌鳥古墳群があり、古市古墳群(羽曳野・藤井寺市)とともに一体して世界遺産に登録申請されることになった。
 特に、伝「仁徳陵」は最大の前方後円墳で、大きさにおいてエジプトのクフ王・ピラミッドおよび中国(西安)・秦の始皇帝陵と並び称せられる世界三大陵墓のひとつである。
 大林組の調査によると、当時、伝「仁徳陵」の築造に要した労力は、1日2,000人×15年8ヶ月=のべ約680万人、これら労働者の食糧や道具を確保するために、もっと多くの人々が働き、食糧(米)や道具などの大量生産技術が整っていたことが推定されている1)。
 食糧の大量生産は、弥生時代に水耕稲作技術が中国から北部九州に渡来して以来、日本領土の東部へ伝播拡大して、堺市にも
四ツ池遺跡にその確証が考証されている。
 “集落”から“国”へ、そして“国家”の形成へ、歴史考証においてそこに存在する“王”についての論議はつきものであるが、中国の古代書『宋書』や『梁書』に記された倭の五王〔讃、珍、済、興、武:421〜478年宋(南朝)に遣使〕に関わる巨大陵墓(伝・仁徳陵、伝・履中陵、伝・反正陵)が存在する「百舌鳥・古市古墳群」は、『魏志倭人伝』(西晋・陳寿:280〜290年)において明かされた卑弥呼説ともささやかれた神功皇后の縁とともに、国家形成過程におけるわがまち“堺”の位置づけを見つめなおすにあまりあるロマンを駆きたててくれる。
 平成17年8月24日、堺市公募提案「政令指定都市・堺の未来にかける夢」に、
「次世代型路面電車(LRT)を活かした世界遺産のあるまちづくり」を応募した。

 平成19年6月16日〜22日にかけて、「杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)と行く−東北古代史紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」〔企画主催:(株)国際交流サービス〕の旅に参加し、古代日本の国家形成に多くの示唆を与える高句麗文化と近世・清朝文明盛衰の地、さらに、現代史に史蹟を残した遼東歴史遺産を訪ねた。

< 行 程 > 7日間
  関空⇒瀋陽(瀋陽故宮)⇒永陵、ホトアラ老城⇒集安(高句麗前期都城、好太王碑、古墳群)
    ⇒丹東(中朝国境、虎山長城)⇒旅順(旅順博物館、水師営、東鶏冠山、営城子壁画)⇒大連⇒関空


引用:地球の歩き方編集室;『大連・瀋陽・ハルピン−中国東北地方の自然と文化』’07〜'08(ダイヤモンド・ビッグ社)

引用:宮崎正勝;『早わかり世界史』、84頁(日本実業出版社、2002年)
1.世界遺産高句麗遺跡
1)前期(紀元前37年〜紀元426年)都城と古墳群(集安・吉林省)
 「好太王(広開土王)碑」碑文、「魏書」、『三国史記』によれば、紀元前37年、中国東北辺境の少数民族であった夫余族の朱蒙は、遼寧省と吉林省を流れる現在の渾江(かつての卒本川)辺りに逃れ吉林省集安の五女山城(卒本城)を都として建国し、西暦204年に第2代琉璃明王が丸都山城(山城子山城)へ遷都、その後、国内城(鴨緑江近く平地)に移り約400年にわたり高句麗の国都はこの地におかれた。
 最近の調査では、丸都山城と平城(国内城)は一体のものであり、山城の宮殿は木造の建物で、山城でありながら暖をとる施設が見つからなかったので夏の行宮として使われていたと見られている。このような山城と平城(居城)の組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっている。
 西暦391年に即位した第19代広開土王は、後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従誓わせた。その後、百済が「倭」と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、「倭」を追い返して新羅を朝貢国にした。
 領域を南方に広げた高句麗は、長寿王の時代426年に平壌に遷都した。

引用:資料:杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)、作成:株式会社国際交流サービス;
   『杉本憲司先生と行く「東北古代史  紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」資料集』

将軍塚 (広開土王または長寿王の陵墓説:1,100以上の花崗岩7層積石塚古墳 墓室は上部横穴式石室)

将軍塚石室横穴より展望(周辺民家立ち退き整理公園化)    附属墓(妃の墓? 元々、5基存在))
太王陵 (「願太王陵安如山固如岳」 広開土王陵説 墓室は頂上 崩壊に近い状況 盗掘あり) 

広開土王(好太王)

広開土王(好太王)碑文
高句麗19代国王・広開土王の功績を叙述した石碑。
414年息子の第20代王・長寿王が建立した。

1909年当時の写真
 碑文には、「国岡上広開土境平安好太王」とあり、広開土王は、好太王とも永楽太王とも呼ばれており、編年的に王の治績が余すところなく銘記されている。
 391年に相当する「辛卯年」に該当する以下の一文の解釈〔倭が海を渡って百済・新羅などを臣民(被支配者)とした〕が問題になった。
 
「倭辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民」
 これが、、『日本書紀』に記述が残る4世紀の神功皇后による三韓征伐伝説と結び付けられ、1883年(明治16年)、参謀本部の将校・酒匂景信がこの拓本を日本へ持ち帰った。
 大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の研究者は、この箇所の主語は高句麗であり、大筋では、「倭が渡海したのではない」との見解で一致した解釈をしている。
 碑文の改ざん説もあったが1980年代初めに中国・吉林省考古学研究所の碑文調査で否定されている。
 今日では、碑文の全体的な解釈は緻密になり、研究は大きく発展したが、改めて現存する石碑を実見し、新しい拓本を拓出し検討を加えなければならない必要にせまらっれている。
     
                       丸都山城(がんとさんじょう)
 高句麗時代・前・中期の重要な軍事的防衛施設。宮殿は木造建物で、オンドルなど暖をとる施設が発見されず国内城(平城)の夏宮として使われた。

引用:資料:杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)、作成:株式会社国際交流サービス;
   『杉本憲司先生と行く「東北古代史  紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」資料集』
     
                        国内城(平城)
 高句麗が集安に遷都してきて以降、この地が中心となった。周囲2713mの長方形の城壁で囲まれ、六つの城門を構えていた。現在、アパートに埋もれ、わずか3〜4mの石積みが残り、城壁の外には濠跡があった
     
 洞溝河の河畔にある高句麗時代の古墳群。総数で1万近く、古い年代の石墓と新しい年代の土墓(4〜6世紀)が混在している。
 土墓は、前期のものは貴族の生活を題材とした壁画が、後期のものは4神(青龍・白虎・朱雀・玄武・)が描かれている壁画が多く、日本の高松塚古墳やキトラ古墳との共通性が見受けられる。後期の代表的なものは、五かい墳五号墓。
       
                          五かい墳五号墓
 高句麗時代後期の王族の墓。1962年に発掘され、内部に入って壁画を見ることが出来る。 この地域、全21壁画古墳の内、唯一の地下壁画古墳で、墓室に東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武の図が描かれているのが大きな特徴。
 日本の飛鳥のキトラ古墳でも、4神(特に朱雀の図の発見は日本初)が見られることから、中国古代の神獣の4神は、中国→朝鮮→日本とその系譜をたどる。多湿で保存状態が悪いため、近々、非公開の予定。
  
壁画事例 (展示写真より)

千秋墓
古墳の大きさが85m×80mで、高句麗の古墳の内最大級の古墳(将軍塚:一辺30m、太王陵:66m)。
エジプトのピラミッドは、増築する前は一辺63mであり、高句麗のピラミッドといえる。
2)“中朝”国境の問題
 卒本(桓仁)、集安(国内城)から平壌にわたって分散する高句麗(紀元前1世紀後半〜紀元668年)の遺跡群の世界遺産登録にについては、当初、北朝鮮が平山郁夫画伯(日中友好協会会長)の支援で、平壌近郊にある高句麗壁画古墳群の世界遺産登録手続きを進め、2003年7月のユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で実現のはこびとなったが、その計画を知った中国が単独登録に反対し、委員会開催直前に吉林省集安にある高句麗遺跡を登録申請するとアッピールし、結局、2004年6月に中国・蘇州で開かれた世界遺産委員会で両国同時に世界遺産登録された経緯がある。
 中国側には、「北朝鮮側だけ登録されれば高句麗の帰属問題をめぐり不利になる」との判断があったとみられ、強固な友好関係を持つとされる両国も歴史問題では鋭く対立していることが浮き彫りにされた。

 北朝鮮側は、高句麗を朝鮮半島の「主権国家」と歴史的に位置づけ、中国側の高句麗遺跡一帯も「本来は自国の領土」という意識が強い。これに対して、国内に多数の朝鮮族が住む中国は、地方政権として自国の歴史の中に位置づけようとしており帰属論争の元になっている。
 今日における現実の問題として、現地(中朝国境地域)では、朝鮮族、満州族、モンゴル族など少数民族(全中国では、56民族)には、子どもの出産が二人まで認められるなど制度上の優遇措置が与えられ、朝鮮民族(約16,000人/集安市民23万人=7%)の場合、北朝鮮への往来が認められビジネスに活かして、全般的に漢民族より恵まれた生活を享受している。

はじめて見た北朝鮮の遠景 (右端、山の中腹の煙突は精錬所。煙は出るが、ジェスチャーではとのこと)
山に樹木なく、山頂近くまで開墾され、雨が降ると鴨緑江に茶色の雨水濁流に農作物が混じってが流れ込む

手前、鴨緑江 現地説明では、鴨緑江を挟んで「樹木がなく畑の目立つ方が北朝鮮」

国境近くの農民は経済的に厚遇され逃げない

国境監視所(2名が常駐している模様)

鴨緑江の中央の砂利取り船は北朝鮮籍

川向こうの中州畑は北朝鮮領地
中朝国境:
 1.基本的には、鴨緑江の中央線
 2.船舶航行権、漁業権等は、相互に相手側の領地に抵触しない(岸に接触しない)範囲において認める
 3.中州の領有権は、中朝国境決定の時点でどちらの国民が居住していたか、耕作していたかにより決定

  中州は、ほとんど北朝鮮領。国境近くの北朝鮮農民は経済的に厚遇され、厳罰を恐れて逃亡しない
     
 鴨緑江にかかっている破壊された鉄橋は、1909年8月から1911年11月にかけて韓国にあった日本総督の鉄道局により建設された。元の橋は、全長:944.2m、幅:11m、アーチの数:12であった。1950年11月8日、朝鮮戦争において中国側4番目の梁を残してアメリカ軍の爆撃により破壊された。

北朝鮮直営レストラン(ウエイトレスは歌姫を兼ねる)

日本総督建設アーチ型鉄橋の第4番目の梁

アーチ型鉄橋先端(第4番目の梁)

中国沿岸警備艇

北朝鮮沿岸警備艇
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