現代に生きる僧・行基の伝承伝説

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         市民活動団体“堺なんや衆” 平成21年度事業

         平成21年度「堺(西区)の魅力づくり」市民自主事業補助金交付事業
           文化庁「関西元気文化圏」参加登録事業


SDGsモデルとしての行基事績の再評価

行基活躍の時代背景と事績


平成21年度
「堺の魅力づくり」事業



1.「報告書」目次
 勉強会:
 ・生涯、事跡、信仰
 ・自治体史に見る行基
 ・河内・和泉の伝承伝説
 見聞会:
 ・「生誕地」周辺
 ・「土塔」周辺
  資料-土塔、頭塔
 ・「萩原寺・三昧地」周辺
 懇話会:
 ・参加者話題
 ・考察
 ・「行基の里」提唱
 活動のまとめ:
 謝辞:
 「堺なんや衆」活動資料

2.高倉寺

3.「道中トピックス」
 ・戦場のメリ-クリスマス
 ・「大阪」の初見と伝承

 ・太陽の道


<報道>
 平成22年4月21日(水)

  毎日新聞(朝刊)
 平成22年4月22日(木)
  朝日新聞(朝刊)
  産経新聞(朝刊)
 平成22年5月18日(火)
  読売新聞(朝刊)


活動の目的と取り組み
 堺市民の日常的な身近なところにありながら、それでいて学問(「堺行基の会」)と観光(「NPO法人堺観光ボランティア協会」)の狭間にあって、何か落ちこぼれているように思えるわが郷土・堺の稀有の偉人行基の伝承伝説について、それが何なのか? それが現代においてどのような意味をもち合わせているのか?など、日ごろ気になっていたことを探ってみたいという思いで取り組みました。
 取り組みの方法としては、先ず、行基の生涯、事跡、信仰および生誕地・堺を中心とした伝承伝説について3回にわたり勉強会を開催し、参加者一同が問題意識を共有した上で、実地に3回の見聞会を行い検証しました。
 見聞会の最後には、「勉強会」および「見聞会」の過程で提起された話題や課題について意見交換する「懇話会」を開催し本事業の総括として活動の成果をまとめ、「行基の里」名称の設定および現代社会における民間力活用(PFI、NGO、NPO活動)の先駆けの象徴として「土塔」の位置づけとアッピールを提言しました。
僧・行基の生涯と事績 「行基年譜 表-1表-2
 行基(668~749年)は15歳で出家して大和・飛鳥寺に入寺し、その後、遣唐使として三蔵法師玄奘(601~664年)の下で禅学を学んだ道昭(629~700年)に師事し生涯にわたる民衆のための仏教(大乗仏教)に生きるきっかけに触れることになりました。
 大宝律令完成(701年)後、704年鎮護国家を祈る山林苦修練行と仏教学の研究にあけくれる官寺の修業を断念し37歳にして生家(河内国大鳥郡蜂田郷家原村)に帰りました。
 「聚落の仏教」へと路線転換した行基は生家を改造して「家原寺」とし民衆のための布教に取り組みました。郷里の人々は行基を偉大な修行者として迎え、請われた行基は、須惠器生産の斜陽化しつつある大村里(現堺市高倉台)に大須惠院(高蔵寺)を建設(705年:49院第1号)し聚落の仏教への第一歩を歩みだしました。
 また、病気がちであった母親の療養のため生駒山房(行基墓地のある竹林寺)に移り孝養に努め、「聚落の仏教」への思索を深めました。
 行基は46歳にして、師・道昭から学び、身につけた土木技術を活かし農民の協力の下灌漑用の溜池やそれを管理し併せて民衆のための布教庵「院」(49院)を造営しました。さらに、税物〔租(米など)、調(織物など)〕を背負い、また庸(労役)の義務を果たすために都に行く農民たちのために道路や橋を建設し、往来の要所に一夜の宿と飲食物を与える布施屋(宿泊施設)など農業や交通の施設建設に取り組み、さらに、日常生活に身近な無数の井戸を掘削しました。

     
           千田 稔著『天平の僧 行基』(中公新書、1994年) より追記

 施設を建設する資材の調達は、出家の弟子に乞食修行を勧め、在家の弟子には罪とがを滅ぼす布施行を勧めるなど活発な活動を始めました
 このように大宝律令体制下において「僧尼令」を無視した行動は時の為政者から抑圧を受けることとなりましたが、行基らの行為は国家転覆を目指す行為ではなく、むしろ国家が行うべき社会的事業を民衆の力で行うことの意義が時の為政者・聖武天皇に認められるところとなり行基集団への警戒が解かれました。
 むしろ、不安定な国情に加え天然痘など疫病がはやり治世に苦しんでいた聖武天皇の大仏(東大寺盧舎那仏像)造営の発願に応じて勧進役(浄財集め)を努めました。「国家の名の下ではなく、民衆の手で造営したい」と願った聖武天皇の要請に応えた功績により日本最初の大僧正に就任しました。
 これら衆生に対する慈悲の深さや民衆に利する社会的な実践活動に感銘を受けた人々から、生きながらにして“菩薩”と崇められました。
 行基の活動は畿内地域に限られていたにもかかわらず、行基の信仰思想は平安仏教を支えた最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)によって天台宗や真言宗においても、大乗仏教の理想的な寺院の事例として行基の49院が挙げられました。さらに、平安中期の浄土信仰の高まりの中で、空也、法然、親鸞など念仏聖の登場により人々への教化の先駆者として崇敬されました。
 このように多くの弟子らが拓いた寺院や施設が行基の没後も、行基の弟子を自認する僧の地方での活躍により全国的に「行基開祖」として伝承伝説を後世に伝えていったものと考えられます。
活動の成果
1)現代社会に通じる行基の事跡の再評価を提言
 民衆のために、民衆の力(知識)を結集して本来公権力が成すべき社会的事業を独自に成したことは、現代社会における民間力活用(PFI、NGO、NPO活動)の先駆的事例として再評価に値することを提言しました。
2)地名に伝承伝説が残る行基生誕地一帯を「行基の里」として功績の顕彰を提言

     

 行基の生誕地・家原寺を含め西区(家原寺、鳳)、中区(八田、深井、土塔、土師、陶器)および東区(丈六)に、現在もなお地名に行基伝承伝説を残す地域が多く存在し、その一帯には神亀4年(727)に造営された「土塔」をはじめ寺院や墓地に行基ゆかりの伝承や伝説を有する事物や施設が多く伝えられています。
 行基生誕の地でゆかりの深いこれら地域一帯を「行基の里」と命名することを提言しました。
 
     

  また行基が自ら造営を指導した「土塔」は、現代社会における民間力活用(PFI、NGO,NPO活動)の先駆けともいえる輝かしいモニュメントであり、平成21年3月27日に堺市によって復元整備完成したことをアッピールして現代に生きる僧・行基の功績を顕彰することを提言しました。
3)行基伝承伝説の背景の再発見
 学説的には、行基の行動範囲は畿内(近畿圏内)を出るものではないとされています。それにもかかわらず、行基にまつわる伝承伝説がほぼ全国的に存在しているのは、行基の社会的実践の思想と具体的な働きかけが平安仏教を指導した最澄や空海に大きく影響を与え、その後の浄土信仰の高まりのなかで念仏聖たちによって大乗仏教の理想像として伝えられ、多くの信者により「行基開祖」として創作された事例が多いことが分かりました。
三丘七期会
 「行基の里」勉強会


秋里籬嶋編、堀口康生校訂『和泉名所圖會』(柳原書店、昭和51年)
 高倉寺は、真言宗高野山金剛峯寺真末一等格院で、慶雲2年(705)に行基により生家「家原寺」に次いで行基開創49院の第一番目「大須惠院」として建立されました。
 寺号の「須惠」は、須惠器の「陶(すえ)」に由来するもので、704年鎮護国家を祈る山林苦修練行と仏教学の研究にあけくれる官寺の修業を断念し37歳にして生家(河内国大鳥郡蜂田郷家原村)に帰った行基を郷里の人々は偉大な修行者として迎え、人々に請われて須惠器生産の斜陽化しつつある大村里(現堺市高倉台)の再興を期して「聚落の仏教」の実践を目指し名づけられたと伝えられています。
      
              堺市 泉北ニュータウン 丘陵地域堺市立泉北すえむら資料館
      茅淳県陶邑(ちぬのあがたのすえむら)」(日本書紀崇神天皇条) 東西約15km、南北約9km

 810年、弘法大師が参来され密教の潅頂(頭頂に水を灌ぎ正統な継承者とする為の儀式)の道場を構え、大日如来の尊像を彫り宝塔を建立してこれを安置されました。
 平安末期には、当寺に御行された第80代高倉天皇(1168~1179)から多くの朱印地と「高倉山天皇院」の山号と寺号を賜りましたが、南北朝時代(1336~1392年)、応仁・文明の乱(1467~1477年)、永正7年(1510)の大地震および織田信長の根来寺襲撃の際に関わって焼き打ち(1585年)に遭うなどことごとく失われました。
 当山中興の祖とも言うべき真海僧正、ついで僧快盛が復興に務め、天正末年(1591年)には金堂を再建し、行基作と伝えられる薬師如来が本尊として安置されました。
 慶長末年(1614)、岸和田城主・小出播磨守秀政の三男・小出大隈守三尹(さんい)が分家して陶器村に陣屋をおき、高倉寺に帰依して諸堂の修理・改築などに尽くしました。
 境内は現在の茶山台を含む約10万坪にわたり、七堂伽藍や49の子院を有した大きな寺として栄えていましたが、明治時代になって詔書「大教宣布」(明治3年)の布告により本坊(金堂、宝起菩薩堂、御影堂、大日堂)および宝積院(ほうしゃくいん)本堂とこれらが所在する敷地を残し、それ以外の塔頭・寺院は廃寺(廃仏毀釈)となり数万坪におよぶ土地は上地されました。
 宝積院本堂には、織田信長による焼き打ち後、豊臣秀吉の命で造園されたと伝わる小堀遠州による「亀」の庭園と茶室「寶聚庵」があります。特に、茶室は豊臣秀吉により「寶積院」と「聚楽第」の頭文字をとって「寶聚庵」と命名されたと伝わっています。
 宝積院本堂の内陣には、長谷川等伯の孫・長谷川等舟(雪舟13世)と銘記された天井画がありましたが、その後の大地震で崩れ落ち、現在では、中央仏壇上に江戸時代後期の作と伝えられる紅梁型落掛が残されております。
 当代(平成23年)のご住職で第74代ですが、明治5年に太政官布告が公布され僧侶の妻帯が認められて以降親子代々世襲ということでは3代目だそうです。

本坊入口

左から 御影堂 宝起菩薩堂 金堂

   金堂 後方御影堂


 恵心僧都(源信和尚)
         御手植之松

     後方宝起菩薩堂

   厄除け長命の鐘

宝積院大門

十三仏塔

左から
 彩色栱間壁(長谷川等舟銘記)   本尊・薬師如来   彩色栱間壁(長谷川等舟銘記)

茶室「寶聚庵」


豊臣秀吉命名
寶:寶積院
聚:聚楽第
 
小堀遠州造作 「亀」の庭

道中 <ものしり帳>-第1回見聞会

「戦場のメリー・クリスマス! in 堺」家原城址伝承
 16世紀中頃、三好長慶が「畿内八ヶ国」を制圧し和泉国もその支配下にありました。永禄年間(1558~1569年)以降、三好長慶の家臣であった松永久秀が力を得て、三好義継を擁する三好三人衆(*1)と対立するようになりました。
   *1:三好三人衆=三次長逸(ながゆき)、政康、岩成友通(ともみち)
 家原城に立てこもっていた松永久秀方の侍たち(和泉衆)は、永禄9年(1566年)2月、城を出て上之芝(現在の上野芝)で戦い三好三人衆の軍勢に敗れ岸和田城に逃れました。最終的には、永禄11(1568)年12月、松永方の寺町左近将監・雀部次兵衛らがたてこもる家原城が三好政康の軍勢5000騎に攻められ落城しました。城から逃れた人々はこの付近の踞尾(つくのお-現・津久野の名前の起源)、家原に多く住み着いたといわれています。
 
 永禄9年(1566年)、降誕祭(クリスマス)の頃、堺にいた宣教師ルイス・フロイスは、キリシタン相互の一致和合と愛を示すため、街の会合所(*2)を借り受け、クリスマスのミサを行ったといいます。会合所はクリスマスを祝うために飾り付けられ、降誕祭の夜にはキリシタンたちが集まり、ミサを行いました。翌日のミサの参列者の中には、対峙していた松永方と三好方両軍から来た侍が70 名ほどがいて、敵味方の区別なく、友愛と礼儀を持って交流したといわれています(『堺市史』第2巻368頁)。彼らがクリスマスのミサに参列したことで、当日の戦いはなく、事実上のクリスマス休戦となりました。
   *2日比屋了慶の屋敷(現・ザビエル公園)

 日本におけるクリスマスは、天文21年(1552年)12月10日周防(山口県)での事例が記録に残っている最初といわれていますが、「戦場のクリスマス休戦」としては、勿論、日本最初で、なおかつ、世界的(*3)にも記録として確かめられる事例としては最初と考えられます。
  *3:1914年12月25日 第一次世界大戦 ドイツ軍とイギリス軍の戦場 数日後戦闘再開
      ドイツ軍がクリスマスツリーにキャンドルを灯すと、対峙していた連合国軍も自発的に停戦
      命令を出したそうです。
      ベルギーのフランダース地方で、両軍が対峙していた中央で彼らは顔を合わせ、死者を埋
      葬し、互いの配給品を交換したり、サッカーの試合に興じたと記録があります。



道中 <ものしり帳>-第2回見聞会

大坂(おおざか)⇒大阪 初見と伝承百舌鳥八幡宮
 現在の「大阪」は、古代は「難波(なにわ)」、中世(1496年)には「小坂(おさか)」⇒「大坂(ヲサカ⇒オオザカ)」と変遷し、明治維新(1968年)に至って「大阪(オサカ)」⇒オーサカ)」と私称が変化して定着した。
 「坂」は、1496年に浄土真宗・蓮如上人(第7代門主)が「上町台地」に石山道場(後に石山本願寺)を建立したことから台地の坂に付けられた名前に由来し、蓮如上人による御文書の中の「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」の記載が「大坂」の初見となっている。
 仏教では、「坂」が「土に反る(死ぬ)」という意味につながることにはそれほどこだわりはなかったが、明治維新後の1868年、新政府がもとの大坂三郷(北組、南組、天満組)に大阪府を置いた時、「坂」という字が「土に反る(死ぬ)」とか、「士が反する」(武士が叛く)と読めることに縁起を感じ「大阪」へと文字を改め、「阪」は「坂」の異体字のなかでも古字とされる字であり、阜部(読み:ぶぶ、意味:こざとへん)は小高い土山・丘陵を意味することから付けられた。

 *:「大阪(オサカ)」から「大阪(オオサカ)」への変化は、大阪駅(1874年開業)の駅員が列車の到着のたびに
     「オーサカァー」と呼称していたことが定着したという説もある。
 
         
              宝暦四年(1754年)       「大坂」刻字     天明三年(1782年)      「大阪」刻字

 一方、百舌鳥八幡境内・放生池にある鳥居には当時の慣例に従い宝暦4年(1754年)「大坂」の切り込み文字が見えるが、同じく境内の「若宮社」前には、天明3年(1782年)寄進灯篭に「大阪」の文字が記録されており、天明3年の浅間山大噴火をはじめ天明の大飢饉等天地騒動の治まりを念じて「坂」(土が反り返る=天地騒動)を「阪」(小高い丘陵)に代え「大阪」を刻みこんだものと考えられる。これは明治維新における呼称・文字の変更よりも86年も早く時期をさかのぼって「大阪」の記録の初見という説がある。

道中 <ものしり帳>-第3回見聞会

「太陽の道」 北緯34度32分 
     
                  「春分の日」および「秋分の日」の「太陽の道」(北緯34度2分)

 伊勢湾と淡路島を結ぶ同じ緯度上に太陽信仰の土地が並んでいるというショッキングな事実があります。この地域で言えば、ここ大鳥神社から東へ関茶屋(出雲大社大阪分祀)→日置荘(西、田中、原寺、北の各町)→美原区の中心地→穴虫峠越えの二上山(飛鳥神社)→箸墓古墳→檜原神社(三輪山)→天神山→伊勢斎宮→伊勢神島などがその線上に並んでいて、更に西へは海上を隔て淡路島西海岸の伊勢森を経て蟇浦に至っています。
 そして「ヒキ」と称する地名がずらりと同一線上に点在しています。ヒキは引き、蟇、日置、疋といろいろな字が当てられていて古代から伝わる日招き(太陽を招く)集団の居住地と思われ、これこそが「太陽の道」だと昭和58年にNHKから放映されました。その後松阪高校天文部の生徒がこの事実を立証して一時期大きな話題になりましたが、最近はあまりこの話は聞かなくなってきました。
 さらにこれと関連することでは、これも古来から伝わる日想観=日の伴信仰があります。彼岸の中日に沈む夕陽とともに極楽浄土を目指した補陀洛渡海(入水)信仰が阿弥陀信仰の極致とされました。


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