中国・連雲港市カンユ県徐福国際学術研究討論会 発表 2005年10月1日 <調査参加者>(50音順、敬称略) 池上正治、石川幸子、岡田明寛、河村知久、呉竹 正、瀬島正司、中西美恵子、前田秀一、益田宗児 |
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>>コンテンツへ戻る >>トップへ戻る 市民活動団体堺なんや衆 目次 1.私が住む「堺市」 2.「秦氏」調査 1)調査対象及び結果 2)「秦氏」について 3.おわりに 4.引用資料 |
1.はじめに ‐ 私が住む「堺市」について 「堺市」は、弥生時代(紀元前3世紀)には大規模な集落が出現し、水耕稲作がおこなわれ、銅鐸など金属器の使用も考証されている。古墳時代(5世紀)には、仁徳陵など巨大古墳を含む百舌鳥古墳群が築造され、古墳文化が栄えていた1)。 特に、仁徳陵は、その大きさにおいて、常に、秦の始皇帝陵およびピラミッドなど世界の巨大陵墓と比較されている。建設会社「大林組」の調査によると、当時、仁徳陵築造に要した労力は、1日2,000人×15年8ヶ月=のべ約680万人、これら労働者の食糧や道具を確保するために、もっと多くの人々が働き、食糧(米)や道具などの大量生産技術が整っていたことが推定されている2)。 また、この巨大古墳の築造のためは、多くの渡来人の知識や技術の貢献が考証されている。 2003年、堺市と連雲港市の友好提携20周年を記念して、両市の友好の絆を軸にし、「徐福伝説」をテーマとするグーロバルな市民交流の「機会」と「場」の提供を目的として、「中国文化セミナー“徐福”」を堺市で開催した。連雲港市からは、劉永忠市長以下12名がご参加いただき、日本国内から約200名の方々が参加された。 張良群先生には基調講演をお願いし、「徐福は、日中友好の先祖」であることをお話いただいた。それを受けて、作家・翻訳家の池上正治先生に「弥生時代の使者・徐福が伝えたこと」を、さらに堺市博物館長角山 榮先生には「徐福が求めた不老長寿の仙薬とは」という講演を、それぞれお願いした。 ⇒ このページのトップへ戻る |
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2.「秦氏」調査 古墳時代以降、仏教の伝来(538年)をきっかけとして、国政のあり方をめぐって、崇神派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とが争い、604年に崇仏派の聖徳太子が、日本で始めて憲法17条を制定し、広域王権国家を樹立した。 聖徳太子の活躍の陰には、渡来人・秦河勝の経済的な支援が伝えられている。この秦河勝の足跡を中心として、「秦」族渡来の伝説について、作家池上正治先生のご提案により、市民活動団体「堺なんや衆」会員と共同調査をした。 |
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1)調査対象および結果 ・大酒神社(京都市太秦) 日本の秦始皇帝廟と言われている5) 祭神:秦始皇帝、弓月王(ユンズノキミ:秦始皇帝の5世の孫説)、秦酒公(ハタノサケキミ)。 356年、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴な国風を尊信して来朝しこの地に勧請した。 後に、功満王の子弓月王は、372年百済より127県の民衆18,670余人を統率して帰化し、弓月王の孫・酒公は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織によって絹綾類を朝廷に奉納した。機織りのほか、農耕、酒造、土木、管弦楽、工匠産業の発達に貢献した。 ・大聖将軍寺(大阪府八尾市) 神仏崇拝者戦争古戦場跡 587年、崇神派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とが、仏教導入をめぐって戦った古戦場。崇仏派の聖徳太子が勝利した。 秦河勝(秦酒公の6代目の孫)は、聖徳太子四天王の一人「多聞天」として祭られている。 ・広隆寺(京都市太秦) 秦氏の氏寺、京都最古の寺院 603年、聖徳太子が新羅より贈られた弥勒菩薩(日本国宝第1号)を秦河勝に授け、その仏像を本尊として建立。 聖徳太子建立七大寺(法隆寺、四天王寺、法起寺、中宮寺、葛城寺[廃寺]、橘寺)の一つ。 ・秦楽寺(奈良県田原本市) 秦氏居住地(現在も「秦荘」の地名残る)、伎楽・雅楽伝来習得の地 647年、百済より千手観音像を贈られ、聖徳太子が秦河勝に授け建立された。秦河勝が、聖徳太子の命を受けて、中国や朝鮮半島伝来の伎楽・雅楽を子息や孫に伝習させた。それは現代の能や歌舞伎に通じている。 秦河勝 聖徳太子 調査参加者 ⇒ このページのトップへ戻る |
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2)「秦氏」について 『新撰姓氏録』(815年奉進)には、秦氏は、「諸蛮」の中国に属しており、その出自を秦始皇帝の後裔とする説もあるが6)、考証は得られておらず、新羅系の渡来人とする見方が多い。 「秦」は族名で、朝鮮語の「海」(パタ)を意味するといわれ、畿内から九州まで各地に広く分布し、養蚕、土木、金属精錬技術を伝え、文筆、算術に長けていたことが知られている。秦氏は、仏教よりも、「不老不死」や「生まれ変わり」を奥義とする神祇信仰(神道)を崇拝し、そのために、上加茂神社、松尾大社、伏見稲荷、宇佐八幡(八幡信仰)等の建立に尽力した。 |
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3.おわりに 秦の始皇帝の方士・徐福の渡来伝説では、南は鹿児島から北は青森まで、有力伝承地だけで20ヵ所に及ぶと言われている。 その中にあって、堺市に徐福の伝説はないが、弥生時代には、大きな集落が存在し、弥生文化が形成されていた地でもある。 友好都市提携後20数年にわたる絆を軸として、日本のほぼ中央に位置する地の利を活かして、「堺」の地で「徐福伝説」をテーマとして、日中韓はもとより、日本国内各伝承地の皆さんと市民交流の「機会」と「場」を持つことが出来ればと思っている。 最後に、こうした発表の「機会」と「場」を与えていただいた中国徐福会およびカンユ県人民政府に厚く御礼申し上げます。 |
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4.引用資料 1)堺市市長公室広報課;『堺市勢要覧2005』(2005年3月) 2)株式会社大林組プロジェクトチーム「王陵」;『季刊大林組』第20号(1985) 3)堺市ホームページ 三次元による3大墳墓の比較 海外姉妹・友好都市 4)大阪日日新聞社;「堺市・連雲港市友好提携20周年記念セミナー」 写真提供 5)山田邦和;『歴史街道』「まちかど歴史散歩19 6)片倉 穣;『歴史研究』、第531号、24(平成17年8月号) ⇒ このページのトップへ戻る |
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