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ケネス・タナカ著、島津恵正訳『真宗入門』(法蔵館、2003年) <プロフィール> ケネス・タナカ(Kenneth Tanaka) 1947年山口県生まれ 哲学博士(仏教学Ph.D) 武蔵野大学教授 東京大学大学院博士課程退学、カリフォルニア大学(バークレー校)大学院博士課程終了 主な著書: 『中国浄土教の暁 − 浄影寺慧遠の『観無量寿経義疏』(ニューヨークク州立大学出版、1990年) 『オーシャン−アメリカにおける浄土真宗の入門』(Wisdom Ocean Publications、1997年) 『アメリカにおける仏教の顔々』共著(カリフォルニア大学出版、1998年) |
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宗教は、自己自身の生き方に対する問いかけが基本となっており、道徳でもなく、死者のためでもない。 アメリカでは、自分の宗教見解をはっきりと他の宗教の人に説明しなければならない必要に迫られる。従って、自分の宗教を大事にする習慣がある。 仏教では、その悟りを開いた存在として、この濁世に即座に帰って来て衆生を悟りに導く連綿たる一如の働きに加わる。この点においてキリスト教と異なる。 仏教が解決する“苦悩”とは、社会的や経済的なことより、実存的な(個別者として自己の存在、経験を重視した)苦悩を対象とする。 仏陀は、人々が苦悩を克服するのを助けるために教えを説かれた。悟りに伴う智慧が生まれれば、苦悩は生まれない。 “信心”とは、“めざめ” ・この世で実現可能な深い意識の転換 ― 理解、智慧、覚醒を伴う心のひろがり ・個人の実存的な判断に基づいて心理そのものに従う ・真に心が安んじる 親鸞聖人は、海のイメージを好まれ、自分の愚かさや絶望を語られる時、海を喩えに使って述べられている。 悲しいことに、この愚か者の親鸞は、愛欲の荒海に浮き沈み名誉欲や利害に迷ってばかりいて、阿弥陀仏の救いを喜ぶことも本当の悟りに近づくことも楽しみに思えないでいる。 恥ずかしく、痛ましいことである。 その時、海の深淵から「力を抜きなさい。力むのを止めなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏。」 嬉しいことではないか、私の心も魂も阿弥陀仏の本願の浄土に根付き、思いも情も人知を超えた真理の海、不可思議の徳の海に浮かされて、生かされて漂っている。 親鸞聖人は、念仏「南無阿弥陀仏」に重点を置き、念仏を阿弥陀仏そのものと考えられた。 蓮如上人は、ご本尊として、「無限の智慧と慈悲」の象徴である「南無阿弥陀仏」と漢字で書かれた名号が最も望ましく、続いて、巻物に描かれた阿弥陀仏の仏画(立像)、人間の形をした阿弥陀仏像(立像)の順を示された。 |
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