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木村世雄;『こんなの書いてある』(百華苑、2004年) 木村世雄;『続・こんなの書いてある』(百華苑、2006年) <プロフィール> 木村世雄(きむらせいゆう) 1973年大阪府生まれ 浄土真宗本願寺派 恵日山 眞光寺 若院 龍谷大学大学院博士後期課程満期依願退学、龍谷大学非常勤講師 博士(文学) 主な論文:『明和法論俯瞰記』、『蓮如上人御一代記聞書に聞く真宗伝道の理念』 『真宗研究方法の特異性上・下』、『真宗における阿弥陀仏身表現の思想史的意義1〜4』 『親鸞の浄土観』など。 |
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<目次> ・仏はどこに? ・仏様に出遇う |
仏法(或いは宗教)は、どこまでも「それぞれの人々がどのように受け止め、考え、感動したのか」を自分自身に問うていく営みであるとの思いから、著者が「掲示板伝道」を思いたち、この度、そのエッセンスを著作として出版された。 『蓮如上人御一代記聞書』第185条に、「仏の教えを語るときには、身近な言葉で分かりやすく、簡潔に話さなければならない」と説かれておられることに習ったそうである。 本願寺第八代宗主・蓮如上人(1415〜1499)は、教育の行き届かない時代の人々に漢字だらけの仏典の教えを伝えるために最大限の努力を払われた。500年以上も前に、すでに、「信心・安心」という言葉が伝わりにくい難解な用語であると断言されているのは驚くべきことと指摘している。 我々は、まさに、言葉を介してつながっていくので、言葉を大切に、一方通行にならないように心がけなければならない。 読み手の心をプラス側に揺り動かすものでありたい、読み手と心を通わせるものでありたいとの思いを込めて掲示板伝道の言葉は綴られ、今日(こんにち)も素直な受け手の心に発信されている。 収録は、いずれも含蓄に富んだ言葉であるが、本書はその心の内を誠実に解説され、受け手に伝える努力をされている。 これらの中から、感動を持って自分自身に問うてみる言葉に出会い、仏法へよりどころを求める機会への“道”案内として読者へ呼びかけている。 「仏はどこにいるのか、と問うことは、心はどこにあるのかと、問うのと同じ」 「仏や浄土などというが、一体そんなもの何処にあるんだ?」と、とても多い質問です。 しかし、「心は何処にあるのだ?胸にあるのか、頭の中か?見せてみろ」と、問う者はいません。実はこの二つの問いは全く同じ質の問いかけなのですがね。 仏や浄土は心や精神と同じで、実在として存在するものではないのです。 目に見える存在のことしか頭にない人問を大ざっぱに言って「唯物論者・物質主義者・無神論者」などといいます。彼らは理性的な勉強をしすぎて視野が狭くなってしまったのでしょうか。 理系人間は、科学や理性が真実を知る為の一つの手段ではあるけれども、万能ではないということを理解する必要があります。文系人間は人々からの仏教への素朴な質問に対し、論理的・現代的に説く必要があります。 一方で「この本は読む価値がある」などといいますね。 しかし、もちろん、読む「価値」など目に見えませんし、価値を見出せない人もいます。仏や浄土の存在性とは、価値があるといった意味合いに限りなく近いものです。 つまり宗教とは、「有るのか」、「無いのか」などの実体を問うものではなく、私の人生の価値を見出していく世界なのです。 阿弥陀如来の教えは、私にとって無くてはならない価値のある世界なのです。 「仏像を拝むものは多いが、仏様に出遇う人は少ない」 自分本位の祈願をする前に、先ずは仏様の目をじっくり見ることです。なんとも、自分の内面が全て見透かされているようで、妙な気分になるはずです。 仏様は、何を見ておられるのか。私が何かを願う前に、仏様が私に何らかの願をかけておられるのではないだろうかなどなど、じっくりと対話してみてください。 そこで、仏像「を拝む」から、仏様「に出遇う」ことができます。 |