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![]() 河口慧海像 堺ライオンズクラブ寄贈 南海本線 「七道駅」前ロータリー(堺市堺区) トップページ > 河口慧海 > 大谷探検隊 > 河口慧海コレクション |
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<観光情報> ・アクセス 南海本線・七道駅下車 東へ徒歩10分 阪堺線・高須神社駅下車 西へ徒歩10分 ・観光ガイド 堺市立町家歴史館 清學院 (河口慧海の学び舎) ![]() 河口慧海生家跡 和泉国堺山伏町 (現・堺区北旅籠町西3丁) 代表的著作: 『チベット旅行記』 講談社学術文庫全5巻 (講談社、1978年) |
<略歴> 1866(慶応2)年 堺市北旅籠町、樽桶屋の長男として生まれる。 1871(明治4)年 数え6歳で寺子屋「清光堂」(清学院)に学ぶ 1872(明治5)年 学制公布後、錦西小学校に入学も12歳で退学家業を継ぐ 1880(明治13)年 土屋鳳州主宰の「晩晴書院」で漢学を学ぶ、釈迦伝を読んで発心 禁酒、禁肉食、不淫を誓う。黄檗宗瑞龍寺佐伯峰山に師事 1888(明治21)年 上京、哲学館(現・東洋大学)に入学。 1890(明治23)年 羅漢寺で得度し、慧海仁広(えかいじんこう)となる。 1893(明治26)年 宇治・黄檗山万福寺塔頭で漢文大蔵経を読み、原典(チベット語訳「一切経」 およびサンスクリット語仏典)を求めてチベット行きを決意。 1897(明治30)年 神戸を出港し、第一次チベット行に旅立つ。 1899(明治32)年 ブッダガヤ⇒ネパール⇒ボードナート⇒カリ・ガンダキ峡谷 ⇒チベット国境峠(海抜5411m)⇒西チベット巡礼⇒都・ラサ到着 1901(明治34)年 ラサにてセラ寺に入学して修学。随所での施薬で医師として名声を博し、ダライ・ラ マ13世にも拝謁。 1902(明治35)年 5月、日本人であることが露見してラサを去り、チベットを脱出。 12月、インドのガヤで第1次探検中の大谷光瑞(西本願寺第22世門主)一行 に出会う。 1903(明治36)年 チベットの恩人たちが投獄を知り、ネパールで救出活動。 1904(明治37)年 5月神戸帰着、『チベット旅行記』出版。10月、神戸港出発。 1905(明治38)年 ネパールのチャンドラ・シャムシャエル・ラナに漢訳の大蔵卿を献上、ネパールで 仏典収集。カルカッタでパンチェンラマと会見 帰国までの滞在中にダージリンでダライ・ラマ13世に拝謁 1915(大正4)年 9月神戸に帰着。堺市にて帰朝報告。 1921(大正10)年 黄檗宗に僧籍返上。以後、大正大学にてチベット語、チベット仏教教授、仏典研究。 1945(昭和20年) 80歳にて死去 1954(昭和29)年〜1955(昭和30)年 インド、ネパールおよびチベット各地での収集品は、河口慧海の遺族より東北大学へ寄贈され、 「河口慧海コレクション」として東北大学総合学術博物館に一括収蔵されている。 <河口慧海の志> 分かりやすく正確な和訳の大蔵教(仏典の集大成)を作って、日本国民の大安心(心が安らぎ動揺しない境地)の基礎としよう。そのためには、仏教の原点であるブッダ(お釈迦さま)の真実の教えを明らかにしなければならない。 <引用資料> 1.山口しのぶ(東洋大学教授)、講演「河口慧海の真実」、主催:東洋大学、平成23年10月1日、堺市民会館大集会室 2.奥山直司(高野山大学教授)、講演「河口慧海ヒマラヤを行く」、主催:堺市、平成23年11月6日、堺市立錦西小学校体育館 |
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<河口慧海コレクション寄贈の背景> 1.東洋と西洋の接点に位置するインドは他の地域に見られない文化が古くから形 成されていた。 2.これらに関する文献の古いものの大半がサンスクリット語によって書かれていた。 3.お釈迦様が説かれた仏教の原点はサンスクリット語で書かれていた。 4.西洋哲学では早くからサンスクリット語が注目され研究がおこなわれていた。 5.東北大学の研究者(西洋哲学者)に、早くから河口慧海の思想を研究対象として 取り上げる学者がいた。 6.河口慧海の死後、遺族より東北大学に対して収集品を一括寄贈され収蔵された。 |
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![]() ![]() 「清学院」は、天正元年(1573)に開かれたとされる修験道の寺院。明治5(1872)年、明治政府より「修験禁止令」が出され、還俗されたり、当時民衆仏教として普及していた密教(天台宗、真言宗)へ転換を余儀なくされた。 「清学院」では、嘉永元年(1848)より「清光堂」という寺小屋が営まれ、明治5年(1872)学制公布により寺小屋が廃止されるまで続いていた。 平成14年(2002)に、江戸時代後期建築歴史文化資料として国の登録有形文化財に登録され、平成23年(2011)10月27日より堺市立町家歴史観「清學院」として一般公開された。 「清學院」掲示資料より 江戸幕府は慶長18年(1613)に「修験道法度」を定め、真言宗系の「当山派」と、天台宗系の「本山派」のどちらかに属さねばならないことにしている(堺市文化財課)そうですが、詳しくは以下の文献をご参照ください。 関口真規子『修験道教団成立史』(勉誠社、2009年) |
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