― 堺市「政令指定都市」移行記念特別寄稿 ―
 
  牧 彰;『竹の内街道を歩こう』、23頁(特定非営利活動法人ゴダイ、2004年)
      <プロフィール>
          牧 彰(まきあきら) 一級建築士
           大阪府建築士会教育委員(設計製図)
           関西大学非常勤講師(建築設計)、梅花女子大学非常勤講師(建築設計)
           特定非営利活動法人 シニアカレッジ 副代表理事
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竹の内街道を歩こう
 「おかしいなあ!」明治期前半には堺県庁がおかれていた西本願寺堺別院前で、掌中のコンパスの磁針をみて私は思わず戸惑いのつぶやきを漏らしてしまいました。NPO法人ゴダイ主催「竹の内街道を歩こう」第9回例会(河内三太子めぐり)のために、堺市旧市街を下見していた時のことです。
 堺別院の西門は、狭山藩陣屋の城門を移設したと手元資料にありますが、西門は真西ではなく、およそ45度ずれた北西に向いています。真北と磁北のずれは、この地域では誤差の範囲とみてよいでしょう。
 当初は、北西を西といいくるめた堺人のいい加減さ・強引さには、いささか呆れかつ辟易したものですが、この戸惑いや疑問も菅原神杜辺りできれいに払拭されました。京・大坂と同じく堺市旧市街の整然とした碁盤目状街路は「南面思想」に因っていないことに気付いたのです。平城京や平安京の朱雀大路(すざくおおじ)は京域を東(左京)と西(右京) に二分する正中線ですが、堺の大小路(おおしょうじ)通は磁北と45度も振れているのです。牧 彰氏
 中国伝来の道教の神仙思想(天子は南面、死者は北面)は、古墳時代から飛鳥時代にかけてのこの国にしっかりと定着し、以降、宮殿は元より、地域の核となる神社・寺院などは、概ね南面配置が厳守されてきました。また、本邦最初の計画都市・藤原京も唐の長安城を手本にして築かれ、以降、歴代の都は厳格な「南面思想」を基に条坊制(じょうぼうせい)の街区が敷かれてきたのです。
 京阪神間では、「上がる」「下がる」「東入る」「西入る」などの用語が、今でも日常的に使われています。街路が東西南北の方位に適った条坊制の都市に住んできた関西人には、町の方向感覚が生来備わっているようで、関東育ちの私には何とも摩訶不思議な現象として映ります。
 浄土真宗大本山の西本願寺・東本願寺は、いずれも京都の南北を貫く大路沿いに東面の伽藍配置であり、浄土真宗の寺院は、商都・大阪の北と南を一直線に繋ぐ御堂筋沿いの北御堂・南御堂がそうであるように、平安後期浄土教の阿弥陀堂に習い東面配置が普通です。
 私が住んでいる茨木市旧市街(城下町)も方位に準拠して区画され、東本願寺茨木別院の本堂も事例に違わず東向きです。従って、この西本願寺堺別院も「信徒が西方浄土に向かって拝めるように配置されている」と、私は固く信じて疑わなかったのです。
 堺が富田林や今井町のような寺内町なら状況は異なっていたでしょう。動乱の室町期に町人層が主権を持ち、わが国の都市史上極めて珍しい自由都市的発展を遂げてきた泉州・堺では、「まちづくり」の布石はもはや社寺などになく、生活の基盤となる民家(町家)に移行したとみてよいのでしょうか。
 近代になって、F.ナイチンゲールは、「綺麗な空気・水、そして、窓からの目照・眺めが病(やまい)を治す」といみじくも提言しています。人もまた自然の分身であり、健全な家庭に日照は不可欠です。街区の対角に南北軸線を整合させた堺の町並みは、壁(窓)が真北と45度振れるので全ての窓面から陽が射します。私が設計を担当した赤穂市民病院は、この自然の摂理を活かして全病室に日照を得ることができました。
 城下町・寺内町などではなく、会合衆による自治都市・堺では、住民の健康に配慮した快適な居住環境が「まちづくり」の基本理念だったのでしょうか。伝統や規範などに縛られた社寺とは異なり、都市住居は集団規定が当てはまる共同体(群造形)であり、民家(町家)こそは生活の知恵の発露であると思います。全ての街路から日照が得られる斬新な「まちづくり」は、商人の町だからこそ可能だったのでしょうか。
 海に開いた港町・堺に風水思想を当てると、緩い北斜面の海に背を向けた閉ざされた町並みになります。対岸の神戸・西宮などと比べて、風水上対極をなす不適切極まりない「最悪の地相」なのです。これでは、たった16年で廃都になった幻の都・藤原京の轍を踏むことになるでしょう。
 泉州・堺の「まちづくり」に、風水などの古い因習には決して囚われず、合理性を追求した新興町人層の気概・気迫が感じ取れないでしょうか。遠く遥かに海外を見据えた豪商たちの自由闊達な時代精神が、風水の不利な条件を逆手に取った起死回生の歴史的町並みを造り得たといえないでしょうか。日照や通風などに配慮した堺の街区は、台頭する町人文化の魁(さきがけ)として捉えられないでしょうか。
 私は、中世の輝かしい「黄金の日々」を享受した泉州・堺を幾分買い被り過ぎてはいないでしょうか。それにしても、先の敗戦後、本来ならば府下第2の都市などに廿んじることなく、「東洋のヴェネッィア」として全世界に向けて発信できる歴史的文化遺産の数々を、産業・経済最優先を名分にして開発に任せて破壊してきたことは、唯々「痛恨の極み」としか表しようがありません。

                「堺の興亡の歴史と“まち”文化」を参照する

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