国際交流


中国の茶文化と“もてなし”

― 「世界の茶の文化セミナー」(抜粋)と “もてなし”の事例 ―

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<引用資料>
 1.趙方仁;32頁、市民活動団体“堺なんや衆” 平成21年度事業活動報告書「世界の茶の文化セミナー」
 2.谷本陽蔵;『中国茶の魅力』(柴田書店、1990年)
 3.日本中国茶普及協会;「気軽に楽しむ中国茶」−初心者にも美味しいお茶が入れられる知識とコツ
 4.世界の街角で−静かなるプ―アール茶−昆明



<目次>
T.日中茶文化比較
  茶の伝搬ルート
U.中国茶 もてなし
 1.友好都市・連雲港市
 2.茶芸
 3.茶芸−烏龍茶
 4.茶芸−武夷岩茶

 5.茶芸−プ―アール茶
V.中国六大茶類









T.日本と中国 茶文化の比較(抜粋)
                                   首都大学東京非常勤講師 趙方仁氏
 日本の茶の文化の源流は中国からの伝来にあるが、両国の茶の文化の相違は、両国の時代環境の変化だけでは説明し切れない面があり、両国の文化の相違が大きく起因している。
 それは、@仏教との結びつき、A政治との結びつき、およびB茶文化のたしなみを個人的な行為として享受するのか、または集団的行為として位置付けるのかなど、その在り方において相違が顕著である。


1)仏教との結びつき
 中国では、唐代(7〜10世紀)より仏教界は禁酒の規律が布かれ、夜には飲食しないという習慣があったため携帯式の飲茶の器具が普及した。趙州禅師の『喫茶去』によれば、茶は仏教、特に禅宗の僧侶の日常茶飯事の一部になっていた。仏教寺院は、通常山の中にあり、茶畑はその自然環境の一部であり、次第に禅との関わりが強くなっていった。
 文人(いわば、知識人)は、「出世できなければ、即ち独自で自分の身の良さを守り、出世すれば、即ち兼ねて天下を良くする」という美学から、仏教に心を寄せている証として出家者との交流を保ちお寺のシンボルである茶を身近に所持しておくようになった。
 明時代以降、文人たちは、いわば脱俗者が知性と清廉性のイメージを保ち、自然に親しむ手段として茶をたしなみ、さも茶文化の愛好家であるかの如き風情をかこった。茶は、単なる飲み物にすぎなかったが、文人(知識人)たちの風流好みの対象であったから、当時は、金に糸目をつけるものではなく高価な飲み物であった。
 「身不出家心出家」(身は出家しないが心は出家する)。文人(知識人)たちは仏教の脱俗風情を羨ましいとしながらも、政治などへの関心があって出家できない身分にあり、また、仏教の厳しい修業にもついていけないので、お寺のシンボルである“茶”を持つことにより身は自由自在を楽しみながら仏教への縁を保っていた。
 日本では、茶の伝来がより鮮明になったのは、1191年、宋に留学した臨済宗の開祖・栄西(ようさい)が臨済禅とともにお茶の種を持ち帰り佐賀県の背振山、平戸の千光寺に植えたのが茶の源流とされている。
 栄西は、1211年に『喫茶養生記』を著わし、中世のころには大徳寺派の役割が大きく、禅宗が家元の修業に大きく関わって「一心得道」の掛け軸が貴重され、“茶”と“仏教”、とりわけ“茶”と“禅”がある程度一体化していた。
 一方、武士は、常に死を覚悟した存在でありながら、必ずしも仏教には帰依はしていなかったが、茶の湯の文化をとおして仏教につながっているところがあり、また、粗放(そほう)な武将の修業手段としても推奨された。
2.政治との結びつき
 中国では、唐時代(7〜10世紀)に茶の聖典とも言われている『茶経』を著した陸羽(733〜804)を代表とする茶人たちは、政治の場や統治の場に“茶”の文化を位置付けようと努力したが成功せず、茶の文化は中国の時の中央権力と結びついて政治的に利用されたという事例は少なかった。
 北宋最後の皇帝・宋徽宗(1082−1136)は自ら『大観茶論』を著わし、芸術面で天才を発揮し文化財などを保護したが政治的に無能力であったために、最後は亡国奴として追われた。
 明朝創始者で初代皇帝に就いた朱元璋(1328〜1384年:在位1368〜1398年)が、唐時代から続いていた“団茶”を製造過程が過酷で民力を疲弊しているとして“団茶”禁止令を出して、その後の“散茶”の発展のきっかけをつくった。その実は、朱元璋が安徽省の貧農の出身であったため固形茶を飲みなれておらず、美味しくないという理由であったとも伝えられている。
 清朝第6代皇帝乾隆帝 (1711−1799)は、中国歴史の中で最もお茶、特に龍井茶を愛し茶詩を多く書き遺したが、皇帝の権力を利してとりたてて政治の場に茶を持ち出すことはなかった。
 19世紀後半のいわゆる“百年戦争”(アヘン戦争:1840〜1842年を起点とする一連の戦
争)では、中国の茶の生産伝承が崩壊し、喫茶文化の主役を担う“文人”集団(知識人集団)が減少し中国における茶の文化的なイメージが萎縮した影響は大きかった。
 日本では、千利休(1522〜1591年)によって「茶の湯」が大成された中世のころ、“茶”の文化は諸国大名に対して先進文化の象徴と位置付けられ、権力につながるためには“茶”の文化をたしなまなければならなかった。茶道具など茶の湯の文化は、戦功の褒美としても与えられ政治的な役割を果たしていた。 
3.“たしなみ”のあり方の違い−個人的行為か、集団的行為としてか
 中国では、一人で飲む茶は"神“、二人の茶は“趣”、三人で飲む茶は“のどの癒し”、七人八人は“茶を施す“といういわれがある。集団において“施される”茶の例として“闘茶”があるが、これは人間関係形成のためのコミュニケーションに主眼があるのではなく、「勝者登仙不可攀、輸同降将無窮恥」(勝てば、仙人になったように偉くなり、近よりがたい。負ければ、投降した将のようにその恥は窮まりない)。あくまで個人の勝負の場である。
 中国には、「文士茶」というものがあったが、それは、“茶人”が自ら規範を重視して持っていたも
のではなく、“茶童”を使い形式にとらわれず自分自身は精神的なリラックス、陶酔感を求めることを目的としていた。作法はあくまで美味しさを追求するための手段としての手順であって、精神性とはまた別のものであった。
 廬仝(ロドウ:775〜835)の詩「七碗茶詩」に「茶を飲めば、もう山にあり、空を飛んでいるようだ」という詩があるが、中国人はお茶の美味しさに関心がありお茶で心を養うとは言いながら、実際には使用人にお茶を入れてもらって優雅さを楽しむというものであって、その場のお茶は、金には糸目をつけないで美味しい「一杯の清茶」を求めるという風潮があった。
 従って、お茶の作法に流派というものはなく、個人の美味しさ、優雅さなど価値判断によってその時々に大きく変化していった。
 日本では、亭主がいて、自ら“しつらえ”をし、客人を“おもてなし”をすることを基本として“茶会”が成り立っている。このように亭主と客人の組み合わせから成り立つ集団的行為に基本を置いているために茶の作法が変質しにくい状況にあったと言える。
 日本では形式美に価値を見出し、精神性を重要視して千利休が茶の湯を大成したが、中世から近世にかけて武家社会に取り込まれ、規律を重視し、作法にこだわり身体を使った振る舞いを大事にして、修業の道として伝統を守り、当初の喫茶方そのまま姿を変えることなく伝えられてきた。
U.中国茶 “もてなし”文化
 中国では、日常的な「茶文化」と言う用語の使用は1980年代ごろから始まり、まだその歴史は浅い。
 最近、日本の茶道に影響されて香港や台湾では茶芸が行われるようになってきたが、日常生活の中には、@結婚の際の嫁入り道具茶、A清廉性のイメージ、B心を落ち着ける飲み物およびC健康飲料というような茶文化の風習は今もまだ残っている。
 茶樹は、どこにでも栽培できるが移植が出来ない樹であるため、婚姻の安定を祈って嫁入り道具として茶の種を持参する風習があるが、日本でも中国古来の“釜炒り茶”の製法を今なお引き継いでいる佐賀県(嬉野茶)や熊本県(青柳茶)でこの風習が最近まで残っていた。
1.文化−堺の友好都市・連雲港市
  
        古都“海州”表門         海州古城 (土台の石垣は2000年前の遺跡)

      「双竜井」遊園の紹介

 「双竜井」は、明朝の景泰年間(西暦1450〜1456年)に作られた。その南西には、蒼竜溝があって、南東に鳥竜谷がある。井戸の下には、石彫刻の竜頭口が2箇所あって、水は竜の口から湧き出ている。「双竜井」は、いくつかの小さな井戸の組み合わせからなり、南東側のひとつの井戸は、「手錠をはめている」と言われており、反対の南西側の井戸は、「首かせ」をはめられていて人々に幸せをもたらすと言われている。
 年代が古いため「手錠をはめられている」井戸は、もうなくなっているが、「首かせ」の井戸は、現在もほぼ完全な状態で保存されている。
 「双竜井」の水は、品質に優れ、冷たく美味しい。この井戸の水で、連雲港で採れた「雲霧茶」を点てると、特に、美味しくいただける。「双竜井」の水と「雲霧茶」は、海州(その昔、連雲港市は海州と呼ばれた)名物と言われていた。
 「双竜井」遊園の面積は、6,400平方メートルあり、生態系の中国式古典的庭園で、芸術性に飛んだ様式を整えている。 遊園内のあずまや、高殿、楼、廊下など精緻な作が施されており、景色と一体化していて素晴らしい。湖面の水には流れがあり、海にも通じていて、花の香、鳥の声、春秋季節の風物を存分に楽しめる。


   徐福松針茶






   
   もてなし処”「徐福茶楼」(連雲港市カン楡県金山鎮徐福村「徐福茶園」)   徐福茶(緑茶)で乾杯
    

 中国では、個人的な茶の楽しみ方に重点があり、ほかの人がどんな茶を飲んでいるのかはあまり話題になならない。
 家庭では、、個々に蓋つきのマイ・コップを持っている。携帯用としては、魔法瓶の仕組みを利用した中空式ねじ込み蓋付のコップがあり、旅行などの場合自分の好みの茶葉を入れて持ち歩く。
 コップには、それぞれに好みやお勧めの茶葉を入れ、お湯を注いでお客に勧める。お茶の葉が沈むころが飲みごろで、蓋をずらしながら飲む。お湯がなくなるころ合いを見はからって、もてなしが側がふた開けてお湯を注ぎ足してくれる。
 旅先など出先では、コップにお湯を注いでもらうのも“もてなし”の内とされている。






  
2.茶芸
 礼儀作法を重んじる日本の茶道に対して、中国ではお茶を美味しく飲むことにこだわり重点を置いている。
 1980年以降、台湾や香港では、青茶(烏龍茶)の香りを楽しむ茶器(聞香杯)や茶を飲む品名杯など入れる手順を工夫(“工夫茶”または“功夫茶”)し形式化して、お客にパフォーマンスを楽しませる“茶芸”が発達してきた。

 「茶芸」の基本理念は、主人と賓客がテーブルを一つにして、各人が茶芸の創作者(心の表現、知識と趣の融合、品茶)となることを心得ることであり、傍観者とはならないことが大事とされている。
 香りを大事にする烏龍茶(青茶)以外の茶を淹れるのには適さないが、現在では烏龍茶以外でも工夫茶の手順で淹れる人が多い。

2.1.青茶(烏龍茶)(上海・陸羽茶藝会館)
 「烏龍茶」の祖は、中国・広東省東部・潮州市潮安県で製茶されている「石古坪」や鳳凰山周辺で生産されている「鳳凰嘆叢」と推測されているが、実際の生産量は、福建省がトップで台湾がこれに続いている。広東省、福建省および台湾のいわゆる「華南文化圏」が主な生産地である。
 「烏龍茶」の名前は、広東省で製茶されたお茶の形状や色が烏のように黒く(黒っぽい藍色)、龍のように曲がりくねっていることに由来すると言う説がある。
 「烏龍茶」(ウーロン茶)は、中国茶の内「青茶」(せいちゃ、あおちゃ)に分類され、茶葉を発酵途中で加熱して発酵を止め、半発酵させて造る。生産量は、緑茶の割合が80%近く、烏龍茶は中国茶の生産量の5%程度である。
 福建省北部にある武夷山市の「武夷岩茶」が烏龍茶の代表的銘柄として知られているが、日本において福建省中部・安渓県で造られる「鉄観音」の知名度が高い。


  

 
武夷岩茶の魅了と表演
 平成22年6月13日(日)
  もてなしの茶「千里香」
 平成22年7月18日(日)
  もてなしの茶「大紅袍」
  会場:東福寺派・海会寺

  主催:堺なんや衆


臨済宗東福寺派 
  海会寺(かいえじ)

  創建:1331年 重要文化財



   枯山水 「指月庭

2.2.武夷岩茶(烏龍茶)
    創作・表演:日本中国茶普及協会認定インストラクター 五十嵐敦子氏
     指導:    日本中国茶普及協会理事 松井陽吉氏

 武夷岩茶(ぶいがんちゃ)は烏龍茶の代表銘柄として、また英国人によるインド産紅茶の原型となったお茶としても名高く、その中でも「大紅袍」(だいこうほう)は、国が管理する茶樹で、国賓待遇の客に提供される。
 「武夷岩茶」の基本道程は、18道程(「大紅袍」は26道程)ある。
<道程の概要>
 賓客が入場して上座に座り、お茶どころ福建省の茶摘みの名曲「採茶撲蝶」を中国の伝統楽器奏「二胡」で奏で、これからおもてなしする「武夷岩茶」を香り高く美味しいお茶として仕上げてくれた茶師の心へお導きとする(
「もてなしの前奏」)。引き続き、お香を炊いてその場を平穏な雰囲気に包み込む(「焚香静気」)。前座が整い次第、香り高くおいしく仕上がった武夷岩茶を先人の知恵を活かし、さらに美味しくいただくため、武夷山の地元の方々が作られた作法に従って淹れてゆく。
 武夷岩茶を取り出し賓客に観賞していただく(
「葉嘉酬賓」)。火を使って山の渓谷や泉の水を煮て沸騰させ、急須に熱湯をかけて温める。武夷岩茶を急須に入れ、高い位置から急須にお湯を注ぎ急須の中の茶葉を攪拌する(「懸壺高冲」)。浮いてくる泡を急須のふたで取り除き、急須の表面にお湯をかけて、茶杯は熱湯の中に入れて温める。
 急須の液を茶杯に注ぎ抽出の具合を見て戻し、三国時代の蜀の武将・関羽が兵を閲兵した時のように茶杯を円陣に並べ急須の中の抽出液を円を描くようにして茶杯の中の濃度が均一になるように注ぐ(
「関公巡城」)。
 龍が茶の中で戯れるように、茶葉一つを茶杯の中に浮かべて楽しむ。3匹の龍が鼎の支柱であるかのように親指、人差し指、中指を龍に見立てて茶杯を持つ。茶杯の中の烏龍茶液の色、香りおよび味わいをお楽しみいただく。
 最後に、身を起こして飲み干し、武夷岩茶の味わいの恩恵に感謝する(
「尽杯謝茶」)。
 
 もてなしの前奏「採茶撲蝶」        焚香静気               葉嘉酬賓

懸壺高冲                関公巡城              尽杯謝茶




2.3.雲南省昆明 “今雨軒” 金達磨 黒茶(プ―アール茶)
 プ―アール茶は雲南省が原産地の濃いセピア色と後発酵特有のまろやかさ、独特の芳香が楽しめるお茶。プ―アール茶に含まれる成分が消化を促進し、脂肪を分解することから減肥茶として人気がある。熟成を重ねるにつれて深い味わいが出るため、古いものほど価値があるとされている。
 雲南省昆明市の名だたる茶荘“今雨軒”では、50年以上の自然発酵により黒く変質したヴィンテージ茶を保管し“もてなし”に供されている。


  雲南省昆明 “今雨軒” 金達磨  プ―アール茶によるおもてなし


<内容>
  Home(首頁:トップページ)
   ⇒ 1.Golden Dharma(金達磨の世界)
       茶的芸術、茶的旅程(日本、英国、タイ)、茶的分亨(四川地震、宋代闘茶、禅茶会)
  ⇒ 2.Tea Story(金達磨長巻物)
       enter(進入)⇒金達磨(下部ロゴ)⇒茶の歴史 上巻、(下巻作成中)
  ⇒ 3.Jinyuxuan Tea Room(今雨軒)会社概要
プ―アール茶の
      魅了と表演

 平成22年11月21日(日)
 会場:堺伝統産業会館
  主催:堺なんや衆


   堺伝統産業会
   
            茶を入れる技の美しさ、表現力でもてなす劉ディ(草冠に的)さん

 “今雨軒”は、お“茶”への感謝の心と“思い”をこめて“おもてなし”する“茶荘”として1998年に設立されました。
 劉さんは、樹齢800年にも及ぶ雲南省でも有数のプ―アール茶樹を有する家庭に生まれ、30年ほど前から、お母様と共に台湾の茶芸などを参考にプ―アール茶の本質と個性に合わせ、茶の製法や歴史を重ねたプ―アール茶の奥ゆかしい味わいを醸し出す“もてなし”の作法の創作に取り組んでこられています。
 さらに、お茶の製法の歴史を研究するために中国各地はもとより、アカデミー会員として英国、日本、タイおび台湾などへ招かれ交流を重ねておられます。
 最近では、陸羽(733〜804年)が著した『茶経』に学び創作された唐代の茶の作法の再現が評判となって北京中央テレビにも出演されました。
 京都大学大学院 人間・環境学研究科において「喫茶文化研究」に取り組まれていました。
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