トップページ コンテンツアンコール遺跡 歩いて見た世界遺産登録の基準


<引用資料>
  1.資料:中尾芳治(前帝塚山学院大学文学部教授)作成:株式会社国際交流サービス
    『中尾芳治先生とともに世界遺産の深層を探る−アンコール遺跡のすべて8日間』 2007.12.15.〜22.
  2.「季刊‐文化遺産」特集‐アンコール文明を科学する〔(財)島根県並河萬里写真財団、平成16年)
  3.監修・著石澤良昭『シハヌーク・イオン博物館 アンコールの仏像』(NHK出版、2007年)
  4.石澤良昭;「アンコールワットにおける日本語墨書」(ユネスコ刊碑文集、2000年8月22日)
  5.地球の歩き方編集室;『アンコールワットとカンボジア ’07〜’08』

  6.波田野直樹;「アンコール遺跡を守る〜保護と修復の現在
    http://www.angkor-ruins.com/restoration/index.htm 

目 次
プロローグ
クメールの歴史と文化
日本人の往来
エピローグ



アンコール関連年表
592年 飛鳥時代(日本)
618年 
 「真臘」国設立

  
ジャヤヴァルマン1世
710年 奈良時代(日本)
802年 
 アンコール王朝設立
  
ジャyaヴァルマン2世
   神王思想、ヒンドゥー教擁立
794年 平安時代(日本)
1113年
 アンコール・ワット建設
  
スールヤヴァルマン2世
1181年
 アンコール・トム建設
  
ジャヤヴァルマン7世
    バイヨン寺院造営
    大乗仏教を国教とする
1192年鎌倉時代(日本)
1234年 
 廃仏毀釈

  
ジャヤバルマン8世
    ヒンドゥー教回帰

1334年室町時代(日本)
1431年
 
アンコール王都陥落
  アユタヤ王朝侵攻
  アユタヤ経由「上座仏教」流入
1576年安土桃山時代
1603年江戸時代(日本)
1612年〜1632年
 アンコール・ワット墨書

 
 1612年 「日本堺」記録多数
    その他「泉州堺
、肥前、肥後
   1632年 森本右近太夫一房
1860年 
 アンコール遺跡再発見

   フラン人・アンリ・ムオー発見
1863年
 フランス領インドシナ
   植民地化(1863〜1954年)
1869年 近代(日本)
1900年
 フランス極東学院設立
  アンコール遺跡修復・研究着手
1945年 現代(日本)
1954年
 カンボジア王国独立

1970年
 内戦勃発

   シアヌーク国王追放
1991年
 「パリ協定」内戦終結
1992年
 UNTAC設立
  
自由で公正な選挙による議会
   憲法制定のためにPKO派遣
1992年
 カンボジア王国再興

 世界遺産登録
1993年
 「東京宣言」
 
日仏共同議長
  アンコール遺跡救済国際会議
2001年
 
千体仏石柱、廃仏発見
  上智大学アンコール遺跡調査団
  パンテア・クデイ遺跡 274体
プロローグ
 アンコール遺跡物語りは、日本にとっても、平安時代(794〜1191年)から鎌倉時代(1192〜1333年)に花開いた華やかな文化創造の時期と一致しており、期せずして、アジア文化揺籃の期に相当する時代と重ねて見ることが出来、大変興味ある物語といえる。

9〜15世紀 インドシナ半島の王国と遺跡
 1860年1月22日の夕刻、「魂は震え、想像力は絶するのみである・・・」と、うっそうとした密林の中から大小700も点在する石造建築物が発見された。フランスの植物学者・アンリ・ムオの再発見からアンコール朝の栄華の夢の跡は「人類の創造的才能の傑作」として、再び、日の目を見ることとなり世界から注目を浴びることとなった。
 1900年には、フランス極東学院が設立され、アンコール遺跡の本格的な整備・修復と研究が始った。
 1991年10月23日、カンボジア内戦の終結をもたらした「パリ協定」(カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定)に基づき、1992年2月「国際連合カンボジア暫定統治機構」(UNTAC)が設立され、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立する1993年9月まで暫定統治した。その間、日本からは、自衛隊をはじめ多くの文民が、PKO(平和維持隊)としてカンボジア復興のために派遣されたが、不幸にして中田厚仁国連ボランティアと高田晴行警部補の二人が凶弾に倒れ犠牲となった。

中田厚仁氏供養碑(コンポン・トム)


国連ボランティア・中田厚仁氏記念小・中学校
(コンポン・トム)

パンテア・クデイ(1177年)−ラテライト

タ・プロム(1177年)−砂岩(カジュマール樹)
 自然に侵食された廃墟としてアンリー・ムオに再発見されたアンコール遺跡は、ポル・ポト政権下(1975〜1979年)、さらには、その後に続くヘン・サムリン(1979〜1991年)政権下においても長く戦禍にさらされ、さらに荒廃した。
 上智大学・石澤良昭学長(現在)は、1961年上智大学(仏文科)在学中にフランス人の指導教授と共にアンコール・ワットを訪ね、その魅力に取りつかれ研究者の道を進まれた。1982年には、当時、まだ国交のなかったカンボジア政府と協力し「上智大学アンコール遺跡国際調査団」を引率し、アンコール遺跡の保存、修復、人材養成、調査研究活動を進め、1996年には、現地に「カンボジア人遺跡保存官養成所」(現・アジア人材養成研究センター)を建設した。
 1992年には、UNTACによってアンコール遺跡が世界遺産に登録(2004年まで、「危機遺産」登録)され、1993年10月日・仏共同議長で「東京宣言」(アンコール遺跡救済国際会議)を採択した。
日本の修復活動
・アンコール・ワット
 西表参道

  向かって左:日本(修復中)

  向かって右:フランス(終了)
 
・バイヨン
・パンテア・クデイ
 仏像274体発見、発掘
・スオール・プラット


アンコール遺跡群における各国遺跡保存活動状況
 2001年3月〜8月にかけて、「上智大学アンコール遺跡国際調査団」は12世紀末建立・仏教寺院「パンテアイ・クデイ」遺跡から千体仏石柱を含む274体の廃仏を発掘発見した。
 丁寧に首を破断して、丁寧に置くという「廃仏」行為でありながら「廃仏」の行為とは異なる人の心が読み取れる遺跡のあり方に強制的な行為の存在が推察され、アンコール王朝末期(13世紀末)においてジャヤヴァルマン7世が執った「大乗仏教」信仰を廃し、シヴァ神崇拝(ヒンドゥ教)に回帰したジャヤヴァルマン8世の統治機能が明らかとなり、通説を塗り替える“世紀の発見”となった。

パンテア・クデイ(1177年) 四面観音菩薩門

発掘現場(展示写真より)
真中長方形は、千体仏石柱、ほか274仏体
ナーガ(蛇)
・サンスクリット語で「蛇」
・水を操る力を持ち、親愛
 の情に溢れた種族
・仏を水から守る
 ・降雨から守る(後背)
 
(立ち上がり、首を前に曲げて雨
  をしのげるように守る)

 ・地上水から守る
 
(とぐろを巻いて台座となる)
 ・河川、湖、の楽園に住む
 (橋や水際の欄干にデザイン化
   されて施設される)





パンテア・クデイで発掘された仏像(大部分は首と胴体が切断されているが中には元のままもあった)
シアヌーク・イオン博物館展示品(2007年11月3日オープン、日本のイオン(株)寄贈)

仏陀(バイヨン寺院十字回廊より出土)


スピアン・プラットウフ 古代橋(ナーガの欄干)
クメール王国建国の歴史と文化
 カンボジアでの人間生活の痕跡は、紀元前4200年まで遡るといわれている。紀元前1500年頃からトンレサップ湖(アンコール・ワットまで約15km)東南湖岸に人々が住んでいた遺跡が発見されている。紀元2世紀頃には、インド文化の影響を受けて南部のメコンデルタ地帯に「扶南」が建国し、海のシルクロードとしてインド、中国、ローマ帝国と交流していた。
 5〜6世紀になると、クメール人がメコン川中流域から南下し「真臘(シンロウ)」国(ジャヤヴァルマン1世)を設立し、7世紀には「扶南」を併合して首都をサンポール・プレイ・クック(616〜800年、現・コンポントム州)に定めた。8世紀初頭、「真臘」は分裂し、国内は混乱するがジャワから帰国したジャヤヴァルマン2世によった再統一された。
遺跡の建築素材
・9世紀以前: レンガ
 
サンポール・プレイクック
・アンコール王朝
        
(802年以降)
 ・建築物:砂岩を主体
 ・外壁、土台:ラテライト

 ラテライト:
   赤土で、雨季に有機質が流
   失し、乾季に水分の蒸発に
   よって分・アルミニウム
   などが表面に集積して形成
   した素材

 

 ・木材朽ち果てた?
 
  ロレイ(建設:879年)

サンポール・プレイクック(7〜8世紀)−レンガ造り漆喰塗り(修復済み) 現コンポン・トム州
 802年、ジャヤヴァルマン2世(802〜834年)は、即位後、アンコール王朝を創設した。
 国家を統一したジャヤヴァルマン2世のもとでは、「王」は神の化身であり、“王即神”(神王)という神王思想が擁立されたという。神王は、インド伝来のヒンドゥー教・仏教の名の下に、輪廻転生を主潮とした土着的精霊信仰を唱え、王権の神秘性や精神的な優位性を増幅し、これにより王の神格化を図り権力として置き換えられていった。この時勢に押され、次第に仏教は公式な場所から姿を消し、シヴァ神(破壊と創造の神)初めとしてヴィシュヌ神(太陽の光輝きを神格化した神)、ブラフマーナド神(宇宙創造神、バラモン教の最高の神)など多神教を崇めるヒンドゥ教が優位に立ち大きな勢力を持ち続けた。
ヒンドゥ教の三神
ブラフマー神

・宇宙の創造神、最高神

ヴィシュヌ神
・太陽の神、海洋の神
・地上には10の身代わり
 となってで現れる
 @魚(大洪水を予言)
 A亀
 B猪
 Cライオン男
 D矮人
 E斧を持つラーマ
 Fラーマ

   叙事詩ラーマやナの英雄

 Gクリシュナ
  
叙事詩マハーバーラタの英雄
 H仏陀(釈尊)
 I救世主

シヴァ神
・破壊と創造の神、山の神

・本尊として祭られる時は、
 男根の形
(リンガー)をとる



須弥山(しゅみせん)
人間の世界は、この山すそのの一つの小さな島で、中央の山の裾野は
四天王が守り、頂上には神様が存在すると言う宗教上の宇宙観を表す

リンガー (ヒンドゥ教三神の一つ・シヴァ神を表す本尊)
 9世紀〜14世紀にかけて王位についたのは26名で、そのうち血縁関係は8名にすぎず、その他18名は実力で王位を勝ち得た征服王だった。王は、即位すると、独自の宗教的宇宙観に基づき新王としての権威をかけた「都城」、「寺院」(護国寺院)、「王宮」の3点セットを建設した。
 
アンコール・ワット(1113年)とアンコール・トム(1181年)    バイヨン寺院 東正門 四面観音像(1181年)
  大きな都市「アンコール・トム」:一片3km、城壁高さ8m 中核に大乗仏教寺院「バイヨン」が建設された
 そのため、アンコール地域にはたくさんの遺跡、遺構が存在し、これをやり遂げたのは4名しか居ないが、13世紀の初め、敬虔な大乗仏教者であったジャヤヴァルマン7世(1181〜1219年)は、即位すると、バイヨン寺院を含む「大きな都市」と言われたアンコール・トムを建造した。
 ジャヤヴァルマン7世は、強い政治主導により、「国教」として「ヒンドゥー教」を廃し、「大乗仏教」を熱烈に信仰し広めた。国内各地には、仏教寺院(護国寺のバイヨン寺院、パンテア・クディ寺院、タ・ネイ寺院など)が建立され、数え切れないほどの仏像が奉納された。
第一回廊壁彫刻物語
   正面入り口より時計回り
・ラーマヤナ
・神々の戦い
・阿修羅に対するヴィシ
 ュヌ神の勝利
・乳海攪拌
・天国と地獄
・偉大なる王の歴史回廊
・マハーバーラタ


アンコール・ワット 第一回廊 天井・壁彫刻

アンコール・ワット 第一回廊 偉大なる王の歴史

バイヨン寺院 東正門参道

バイヨン 四面観音像

バイヨン壁彫刻

バイヨン壁彫刻
アプサラダンス
・天女、天子アプサラの踊り
・9世紀頃、儀式や宮廷の
 祝い事があった際に踊ら
 れ始めた
・円を描くような動き、静止
 したときの姿、、しなやか
 な仕草は、アプサラたち
 が天界と地上の間を漂っ
 ている姿を表す
・カンボジア女性の品行方
 正さ、理想的な人を表す
・アンコール遺跡のレリーフ
 にも数多く彫刻されている
 
バイヨン寺院柱彫刻とクメール伝統舞踊アプサラ・ダンス(左は、“孫悟空”発想の元となった猿)
 しかし、ジャヤヴァルマン7世の死後、王位継承の争いから廃仏毀釈の事件が起こった。ヒンドゥ教(シヴァ神)信仰のジャヤヴァルマン8世(1234〜1295年)の統治下では、「反仏教」運動が国内をゆるがし仏像や観世音菩薩の大規模な破壊が行われた。
 1431年頃、アンコール王朝は隣国アユタヤ王朝から数度にわたり攻撃を受け、ついに約600年間続いたアンコール都城は陥落し、長い王朝の歴史の幕を閉じた。その時を移さず、アユタヤ王朝(現・タイ国)経由で「上座仏教」が導入され、以後、上座仏教がクメール民族の宗教となって今日に至っている。

上座仏教では、永い輪廻転生の中で人間として生れた自分の運命の拠り所として刺青(出生票)を入れている
 約600年間もアンコール以外の地に遷都しなかったのは、アンコールの地理的条件が、インドから入ってきた宇宙観−須弥山(プノン・クレー山)・聖河(シェムリアップ川)・聖都(アンコール都城)−の条件に適合していたからと考えられている。
 文化的背景として、インド文化を受容しているが、土着的な文化要素を混合して独自のクメール文化を展開してきた。亜熱帯地域で国家運営を行うための最重要課題は、農業のための治水であった。高温多雨で水さえふんだんにあれば、アンコール王国は常に豊であった。宗教が、気候風土に適した技術を発展させ、宗教の教義そのものも変化していった。アンコール王朝の宗教は、インドから彫刻やデザイン技法や概念を学んだが、吸収期は7世紀頃までと考えられ、その後は日本の平安時代のように独自の美意識を醸成していった。

スラ・スラン(1200年頃) 王の沐浴池

スラ・スラン 祈り(左手前:お供え)と沐浴
中世 堺の繁栄
・1469年〜1615年
 世界的な商業都市“堺”
1469年−始まり
 遣明船が堺港入港
 
 応仁の乱で兵庫港入港できず
1615年−終わり
 大阪夏の陣で戦火消失

  大阪方に火を放たれ大火消失

・繁栄の経過
 1469〜1550年
   遣明船貿易
   琉球貿易
 1550〜1615年
   南蛮貿易

日本人の往来
 文禄元年(1592年)、豊臣秀吉によって始められた朱印船貿易は、徳川幕府に引き継がれ、慶長6年(1601年)より寛永16年(1639年)鎖国にいたる40年弱の間に350〜360艘の朱印船が東南アジア各地に航行し活動していた。渡航先は、ルソン(現・フィリッピン)、カンボジア、シャム(現・タイ)、チャンパ(現・ベトナム)、マレー人王朝等19ヶ所以上に及び、それぞれに日本人町ができ、約7,000人が住んでいた。

中世 朱印船貿易ルート(堺市博物館・図録『南蛮』より
 須弥山を象徴してヒンドゥ教の宇宙観を具現化したアンコール・ワット中央部の十字路回廊付近には、1612年〜1632年までの20年間で14ヶ所に日本人の墨書が確認されている。紀年の明らかなものは、慶長17年(1612年)と寛永9年(1632年)で、ともに朱印船の活動が活発であった時代にあたり、朱印船に搭乗した人たちであったと考えられる。墨書から読破できる地名として「泉州堺」、「肥前」、「肥後」などがあり、特に、慶長17年(1612年)の墨書には、「日本堺」と記すものが多く、堺商人によって送り出された人々によるものとみられている。
 なかでも、「肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫下一房」の墨書は、「父の菩提を弔い、老母の後世を願って、はるばる海上を渡り、寛永9年(1632年)正月に、この寺院に到着し仏像4体を奉納した」旨書かれていて、事前に内容を準備し順拝地に来て「札を打つ」という意味が考えられる。
 しかし、これら日本人の墨書も、1978年ポル・ポト政権時代に廃仏毀釈の流れの中でペンキを塗られ、無残な姿として今日へ残っている。
 徳川幕府による鎖国の前にアンコール・ワットを訪れた日本人は、東南アジア地域を「天竺」と考え、かつてインドにあった「祇園精舎」と思い込んでいたと見られる。
長崎の通辞(通訳)・野島兼了が模写して持ち帰った「祇園精舎の図」が水戸・徳川家の博物館「彰考館」に保存されており、アンコール・ワット中央祠堂の平面図と一致していることはその顕著な事例とみられている。
 
アンコール・ワット 日本人墨書所在位置(十字回廊:赤丸)    祇園精舎図(水戸・彰考館所蔵)
エピローグ
 数年前、かつて2年間にわたって我が家の隣人であったフランス人・J.M.カンブー氏から、長男・クリストフ君がアジアへ行くことになったと手紙をもらった。久しぶりの再会を楽しみに待っていたところ、彼から「今、カンボジアに来ている」と電話があった。日本までは時間と旅費の関係があって行けないと言う。「なぜ、カンボジアなのか?」聞きそびれて今日まできたが、今回、アンコール遺跡見学の旅でその答えは自ずと出てきた。むしろ、その時、聞き返さなかったのが幸いだったとさえ思えている。
 アンコール遺跡への訪問者は、現地ガイドの話では@フランス人、Aイタリア人、Bスペイン人、C日本人の序列で多いと聞いた。アンリー・ムオーによるアンコール遺跡の再発見(1860年)、フランス植民地時代(1863〜1954年)、フランス政府による本格的なアンコール遺跡の整備・修復と研究の開始(1900年)、日・仏共同議長「東京宣言」(アンコール遺跡救済国際会議:1993年)・・・・。「人類の創造的才能の傑作」の再生に掛けるフランス人の“思い”を実感した旅であった。

Cambouさん一家

アンコール都城を囲む人造湖・バライ(8km×2km)
 雨季には、国全体が大洪水に飲み込まれたようになるため、住居は高床式になっている。
 アンコール遺跡の南に、東南アジア最大の湖・トンレサップ湖があり、湖面積は、乾季は、琵琶湖の約4.5倍、雨季には、周辺の河川やメコン川の水を受けてさらに、その3倍強(約14倍)に広がる。
 亜熱帯地域にあって“水”の文明に生きる生活者として、気候風土の根源的な自然現象を左右する人間の力を超えた存在を信じ、人間が生きるための知恵を与える宗教者を崇め、クメール文明に誇りを持っている。アンコール遺跡は、そのようなカンボジア人の宗教観と美意識を集大成したシンボルとして位置づけられていることがわかった。その故に、国旗としてアンコール・ワットの雄姿が掲げられている。
 今回も、親友に教えられた旅であった。有り難く感謝している。
 
水上小学校(日本NGO寄贈) 2階:運動場

夕映えのアンコール・ワットを背に友と
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